2015年10月15日 投稿者:河内平野 投稿日:2015年10月15日(木)15時01分6秒 通報 僧侶は、本来、民衆を救うために、 正法へ導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。 僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。 そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。 仏教史をひもとくと、インドにおける初期の仏教教団では、出家の修行者も、在家の信者も、 ともに「教えを聞く人」として平等であったといわれている。 ところが、教団が発展し、教団の権威が確立すると、出家の修行者は、 在家の信者に対して、権威をもつ者として、いちだんと高い所に立つようになっていった。 そして、やがて、在家の信者は「仕える人」と呼ばれるようになり、 出家の修行者に対して仕える存在とされていったという。 また、アショーカ王の時代になると、教団に分裂の傾向が表れ始めた。 しかし、教団の僧侶は、自分たちの所業を反省しようとせず、 むしろ、信徒に向かって「僧侶を尊敬せよ」といって、従順と尊敬とを強要した。 それは、教団を維持するには、どうしても信徒の寄進が必要だったからである。 ついには「僧侶を害すると地獄に落ちるぞ」という脅しを使うようになった、とされている。 いつの時代であれ、仏教の「平等」の精神に反して、僧侶が権威をふりかざし、 信徒に従順と尊敬を強要するようになった時に、教団は腐敗し、僧侶は堕落している。 信徒の側は、僧侶の権威にひれ伏した時に、本来の信仰心は失われ、 僧に仕え、依存するのみの形式的な信仰となり、真の功徳はなくなる。 【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】 Tweet