2015年10月19日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月19日(月)08時47分53秒 通報 ■ 「釈尊程の仏に、やすやすと」 名誉会長: 三十二相というのは、インドの民衆が尊敬する条件というか、理想像を集めたものです。“まず、仏への畏敬と恋慕の心を起こさせる”ために、そう説いたのです。それ自体が実在なのではない。凡夫が仏だと自覚させるためです。 「我が身の上」と、「十如是事」にもあったでしよう。 <「此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり」(御書p410)> “青い鳥”の話ではないが、「幸福」を遠いところに求めて、さがしあぐねたはてに、自分の家という一番身近なところにあったのです。幸せは、どこか遠いところにあるのではない。自分が、自分らしく、本然の仏界の生命力を燃やしていくのが「幸福」です。 何があろうとも、前へ前へ、「自分の今世の使命を果たすのだ!」と進んでいく。その「信心」が「仏界」であり、永遠の「幸福」なのです。 三十二相とかは、今でいえば、「学歴」とか「名声」とか「地位」とかに当たるかもしれない。それらは、ある場合は、妙法の偉大さを人に教えるために、役に立つことがあるかもしれない。そういう姿を見て、尊敬の心を起こす人もいるからです。しかし、絶対にそれらが「目的」ではない。 自分をそういうもので“飾っている”限り、本当の“人間としての力”は鍛えられない。本当の信心はわからない。仏法はわからない。そういう「見えっぱり」は「提婆達多の心」です。御書に、提婆が自分も三十二相で飾ろうとする話があったでしよう。(御書p1044) 須田: はい。 提婆達多には三十二相のうち三十相まであって「二相」が欠けていた。「白毫」相と「千幅輪」の相です。そこで、“これでは釈尊より劣っているので、軽く見られてしまう”と思い、一計を案じます。「螢の火を集めて眉間につけて」白毫だといい(笑い)、「鍛冶屋に菊の形をつくらせて足につけ」千幅輪の代わりにしたのです(笑い)。 名誉会長: ところが足をやけどしてしまった(爆笑)。面白い話だね。提婆の本質がよく出ている。それは釈尊に対する「焼きもち」であり、自分を飾ろうとする「虚栄」です。多くの退転者・反逆者も、皆、これだった。また「身はをちねども心をち」(御書p1181)ている人も、たくさんいます。 本当の仏法者は、飾りません。ありのままの姿でいくのです。信心の世界に、学歴とかそんなことは何の関係もない。そんなものにこだわる慢心があれば、かえって信心の邪魔になる。本当の信心は捨て身です。自分をかばうのではなく、不惜身命で「難」に向かって進んでいくのが、本当の日蓮仏法だ。 “凡夫こそ本仏なり”と説く本因妙の仏法をそのまま行じたならば、創価学会の一大民衆運動になる。“自分を飾り立てた権威・権力”と戦う「民衆仏法」こそが、法華経の真意なのです。 斉藤: はい。三十二相というのは「世情に応じた」姿とされています。随他意です。文上の釈尊が自受用身でありながら「応仏昇進の自受用身」と言われる理由のひとつも、そこにあります。(応仏昇進とは、小乗の劣応身から、大乗の勝応身、別教の他受用身、法華経本門の自受用身へと順に昇進したという意味) 名誉会長: 同じ自受用身でも、「久遠元初の自受用身」とは、まったくスケールが違う。一方は個人性を引きずった仏、一方は全宇宙を体とする仏です。 遠藤: こうして学びますと、あらためて文底の仏法の素晴らしさに圧倒される思いです。かりに「進歩」という言葉を使うとすれば、仏教の進歩の頂点です。 名誉会長: どんなに機根の悪い衆生でも救える大仏法です。「病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうべし」(御書p1305)。また「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書p1458)と、御書にある。 少しも“薄めていない”灘の生一本の(笑い)、久遠そのものの妙法です。三世十方の一切の諸仏を「仏」にした「本種」です。 だから大聖人は、この本種を持てば「釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(御書p1443)と言われている。なみなみならない御言葉です。この一言を本当に確信したならば、人生、行き詰まるわけがない。仏です。勝てないわけがない。 “落ちこんでいる”仏なんかいません(笑い)。苦悩に負けて、希望をなくした仏もいない。何があろうとも、「そうだ、自分には妙法があるんだ。乗り越えられないわけがない!」と勇気を奮い起こして進むのです。その“戦う心”さえあれば、煩悩即菩提で、必ず、大きく人生が開けてくる。 「種子」は小さい。しかし何十メートルという巨木でも、ひとつの「種子」の中に全部、要素が入っている。“種子の神秘”です。「南無妙法蓮華経」という成仏の本種を心田に植えて、育てれば、福智ともに限りがないのです。 戸田先生はよく御書講義で「皆さんのもらった功徳は小指くらいだ。それに比べて私は、この会場一杯の功徳をいただいている」と言われていた。 私も同じ気持ちです。 Tweet