投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月15日(木)06時48分10秒   通報
■ 法華経の“本当の主人公”は誰か

遠藤: 前のところで、上行菩薩の出現は「無始無終の久遠の本仏」を指し示していると学びました。

斉藤: おさらいしますと、「上行菩薩」は外用(外面の振る舞い)は菩薩だが、内証(内心の境涯)は仏であり、いわば「菩薩仏」である。内証は「因位(仏因の位)の仏」であり、「因果倶時の仏(仏因・仏果が同時の仏)」である。仏教史上、かつてない存在と言えます。

須田: この「因果倶時の仏」の出現によって、初めて真に「無始無終の本仏」を指し示すことができたわけです。「因が先、果が後」であっては、どうしても、“どこかの時点で”仏になったということになり、「無始無終」とは言えないからです。

名誉会長: その「因果倶時」を「蓮華」という。妙法蓮華経の「蓮華」は「因果倶時の仏」を表しているのです。

遠藤: 難しいですね。

名誉会長: 難しいね。しかし、大事なことは、「学ぼう」という」信心です。その求道心さえあれば人間革命が進む。
戸田先生は、よく言われていた。「わかる」ことより「かわる」ことだと。
たとえ八万法蔵が「わかった」としても、自分が人間革命しなければ、何にもならない。人間革命するための教学です。信心を強くするための教学です。少しずつでも、学び続ける「信心」があればいいのです。

斉藤: それにしても、上行菩薩、あまりにも不思議な存在です。仏教の通念を、ひっくり返すような存在だと思います。

名誉会長: その通りです。じつは「上行菩薩とは、だれなのか。いかなる存在なのか」が、法華経本門のメーンテーマ(中心課題)なのです。
その意味で、上行菩薩こそが、法華経の主人公と言ってよい。釈尊が主人公のように見えるが、じつは上行菩薩のほうが、法華経の「心」を、より深く体現しているのです。
そもそも、法華経の流れそのものが、それを示している。釈尊が「自分の入滅後に、だれが娑婆世界で妙法を弘めていくのか」と呼びかけ、多くの菩薩が「私たちにやらせてください」と“立候補”します。しかし、釈尊は、それを否定してしまう。

須田: 「止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」(法華経p473)
こう、きつぱりと断ります。そして地涌の菩薩を呼び出します。

名誉会長: この「止みね」の一言が大事です。この一言で、それまでの仏法をすべて否定したのです。日蓮大聖人は仰せです。「上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり」(御書p840)

遠藤: 釈尊はの滅後は —- 末法は「上行菩薩の時代」であるという宣言ですね。
「止みね」の一言に、千鈞の重みがあります。

斉藤: そして大地の底から、上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩を呼び出します。だれもが驚きます。釈尊よりも立派な姿だったのだから、驚くのは当然でしよう。
代表して、弥勒菩薩が問います。「この方々は、一体どこから来たのですか。どういう因縁をもって集われたのですか」と。
それに答えるなかで、釈尊は「寿量品」を説く。こういう流れになっています。

須田: たしかに「上行菩薩とは、いかなる存在か」という問いが発端になって、釈尊の「はるかな昔からの成仏(久遠実成)」が明かされます。そして、神力品で「如来の生命」の全体を上行菩薩に結要付嘱します。
こうしてみると、上行菩薩がれほど中心的な役割をしているかわかります。少なくとも虚空会では、“釈尊とともに主人公”ですし、滅後は完全に主人公になっています。

斉藤: 釈尊と上行という“久遠の師弟”が法華経の主人公ということでしようか。

名誉会長: その“師弟不二”で、一体何を表しているのか。それが問題です。
それは宇宙と一体の「無始無終の本仏」の生命を指し示しているのです。本仏の「本因」を、法華経二十八品では「上行菩薩」として表現し、本仏の「本果」を「久遠実成の釈尊」として表現している。

遠藤: すると、同じ一仏 —- 本仏の二つの働きということでしょうか。

名誉会長: そうです。釈尊と上行という二つの別々の仏が出られたわけではない。一仏です。一仏の二つの側面です。だから、付嘱といっても、それは「儀式」にすぎない。付嘱そのものに「実体」があると見ては、法華経はわからない。