投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)16時07分49秒   通報

そしてその後、大聖人の言われた通り、仏法の賞罰は厳然として表れます。

崇峻天皇御書を読めば、この年の九月、鎌倉に疫病が流行し、竜象房は倒れ、
四条金吾を讒言した者も病に倒れていきました。

そして、
「主君の江間氏は、金吾を敵とは思ってはいないが、
一度讒言を取り上げてしまったために、病気となって、そのように長引くのだろう」

との大聖人の厳しい指摘が記されています。

しかし、師匠の指導通り、金吾は主君に誠意を尽くして
治療を続けた結果、主君の病を快方に向かわせました。

そして、金吾の主君を思う一念が通じ、再び、主君から信頼を勝ち取って、

ついに
「主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけり」(一一七三頁)
との指導を、四条金吾は身で読みきったのです。

この四条金吾の迫害の史実は、まさに、大聖人が迫害に合うたびに
大きく飛躍できる糸口を見つけ、広宣流布の活路を開いてきた様相とびったり符合します。

「師弟の道」はやさしく、「師弟不二の道」は、
厳しくも、厳粛で、かくも荘厳なドラマなのかと胸が熱くなる思いです。

冒頭にも述べましたが、日蓮大聖人の佐渡流罪は、二年数ヶ月に及びます。

罪人という扱いを受け、島流しにあった佐渡の地にあっても、勇敢に広宣流布の戦いを実践し、
鎌倉で大聖人とともに戦う弟子たちに、次々と重要な御書を著し、指導・激励・育成をしていました。

いかにこの佐渡期において、大聖人が未来を志向して
数々の指針や法門を、弟子たちに教え激励していたのかがわかります。

それは身延に移ってからも、その実践は貫かれ
「師弟不二の信心」の何たるかを、弟子たちに伝え残そうとしました。

弟子もまた、自らの戦いで「三障四魔」を呼び起こし、本気になって師匠を求め、
師匠と同じく「法華経の行者」としての実践を貫き通していったのです。

最後に「人間革命の歌」の一節を記して終ります。

君も立て 我も立つ
広布の天地に 一人立て
正義と勇気の 旗高く 旗高く
創価桜の 道ひらけ

― 完 ―