投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月 7日(水)16時30分58秒 通報
話を、上野殿御返事(適時弘法事)に戻します。
「時に叶った信心と志ざし」――。
時に巡りあい、時に叶った戦いに出会うということは稀なことです。
時に叶った信心とは、言い換えると「師匠と呼吸を合わせる信心」ということなのかもしれません。
事実、南条時光も弘安二年の暮れといえば、熱原法難期の真っ只中でした。
幕府からは重税が賭けられ、乗る馬もない、妻は着る物にもことかく状態でした。
そんな状況の中で、師匠の安否を心配し、師匠を護ろうと、
米二表をご供養することはまさに自分も「玉をまいらせて地獄へゆくと申すこと、これか」(p1561)です。
白米一俵御書には
「まことのみちは世間の事法にて候」「白米は白米にあらずすなわち命なり」( p1596)
――人間としての真の偉さは世間的な行動として表れる。
この白米もただの白米ではなく、生きている命をつなぐ大事な食料であり命そのものです――とある通りです。
その白米という物言わぬ植物でさえも、時を知って成長し、時を知って実を結びます。
また、仏も「時」を選んで出現します。
時に叶った信心とは、自身がもっとも成長できる戦いの異名なのだと確信します。
時に叶った信心の戦いは、時として、信じられないような功徳と地獄を、同時に味わうのかもしれません。
しかし、その戦いを起す時は、自分自身が自ら誓った誓願と志ざしの如何に依ると思います。
池田先生は、すでに後事の一切を弟子に託しました。
誰かを頼るのではなく、自分が自分の意志で立ち上がるしかないのです。
最後に、有名な「平家物語」の冒頭の文を記して終ります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
以上