投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月 7日(水)16時28分22秒   通報

ちなみに、皆さんは「宗教の五綱」という呼称で習ったと思いますが、
本来「五綱」という呼称は、日蓮仏法にはなく、近代になってからのもので、

明治初年の日蓮宗僧侶「優陀那・日輝」の造語だと思われます。

彼は近代日蓮宗の教学を方向付けたといわれていて、
その著「弘経要義」には「諸宗を折伏するなり(中略)立はすなわち宗教の五綱なり」とあります。

だからここでは「五綱」という言葉は使わず、大聖人の呼称に従い「五義」と表現します。

それでは話しを戻し、詳しく見ていきましょう。

伊豆流罪期、大聖人は「五義」を知る人こそが法華経の行者であり、
五義を知る人は「三類の強敵」の正体を明かしていく人であると提示します。

そして、伊豆流罪という権力者の迫害を受けている日蓮自身こそ、
身をもって三類の強敵を明らかにした「日本第一の法華経の行者」であると確信し、
弟子たちに宣言していきます。

教機時国抄には
「已上の此の五義を知つて仏法を弘めば、日本国の国師と成る可きか」(p440)とあるように、
五義を知る人が「国師」――つまり、社会をリードする指導者であると述べています。

さらに
「三類の敵人を顕さずんば、法華経の行者に非ず。之を顕すは、法華経の行者なり」(同p442)と示し、

大聖人は「法華経身読」する生き方の中で、我こそが法華経の行者であると弟子たちに示しました。

そして、開目抄において
「法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵(おんてき)あるべし。
三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし」(p230)と訴えています。

つまり、法華経に説かれる如く、正法を弘め、正義ゆえに迫害を受けている人は誰なのだ。
その人を求めて自身の人生の師匠と定めなさいということです。