投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月29日(木)09時46分15秒   通報

・永遠の希望様

>極端な話
誰が会長になろうが、私達の師匠は永遠に池田先生
そういう意味だと思うのですが、どうでしょうか?<

創価の師弟は三代で完結しています。以降は、会長であろうと一会員であろうと、弟子という立場であり、変わりはありません。どちらも先生の指導を中心とし、間違っていたら指摘をするのが正しい在り方です。羅針盤なき航海程恐ろしいものはないのと同様、時の会長によってころころ方針が変わるようでは困るのです。したがって、永遠に創価学会は、三代会長の指導を根本に団結していくことが肝要です。

拙速な教義変更がバタフライエフェクトを引き起こし、もたらしたものは何か。それは「乱世」です。乱世とは善悪入り乱れ、何が正しくて正しくないかがごっちゃとなり、カオスとなる現象です。お互いが先生の指導を掲げ、正義と正義がぶつかり合う。そこに便乗し、漁夫の利を得ようとする輩も入り込んでくる。思い込みの正義ほど性質の悪いものはなく、五老僧もまた、自分が正義であると思い込んでいたことでしょう。正義の中に悪が紛れこみ、悪の中に正義が紛れ込む。まさにカオスです。

果たして、池田先生直結、真の弟子の姿とはどのようなものなのか。同じ弟子どうしの中においても、考え方や捉え方の違いにより対立する。「正義」とは自身の一番大事なものであり、譲れないもの。故に、折り合うことは難しく、泥仕合となる。こういった争いは歴史の常であり、避けることができないものである。お互いが先生の指導を大事にし、学会を守ること、学会をよくすることが根底であっても、ベクトルが違うと噛み合わなくなる。

学会を守るという「正義」であったとしても、組織や時代に迎合し、師を見殺しにしたのが54年です。ここに真の弟子の姿はなく、権威に屈した偽物の正義である。どんなに正当化しようとも、権威に屈した正義など価値はないどころかマイナスである。創価学会は悪しき権威と対峙し、民衆を守る団体です。それが大聖人、創価三代会長の精神です。偽物の正義が横行し、カオスに陥った時こそ、真の弟子が出現する時です。そして、それは一体いつなのか。もちろん、「今」なのです。

建学の魂 永遠の勝利の正道より
「私の人生は勝利した。偉大なる未来に生きゆく真の弟子たる優秀な若き学者の創大生と短大生、そしてアメリカ創大生が陸続と続きゆくからだ。」

創価同窓 勝利の歴史より(DVD)
「創価大学は 私の生命である 故に 創大生は 私の真の弟子である」大作

創大生を真の弟子と言われているところに甚深無量の意味があると思います。これは、創大生だから無条件に真の弟子であるというわけではないでしょう。創大生だからこそ、真の弟子の「証」を示さなければならないのではないか。また、創大生であろうとなかろうと、池田門下を名乗るのであれば、現実に、真の弟子の姿を体現してこそ意味がある。宿坊の掲示板では、54年の総括に挑戦していますが、これもまた、真の弟子のありかたを考え、一人ひとりが体現していく方途を示すためのものです。これが根底の掲示板であり続けなければならないと思います。

皆様、「真の弟子」の考察、よろしくお願いします。正義と正義のぶつかり合いの解決の糸口も、ここにあるのです。