投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 7日(水)18時29分19秒   通報
斉藤: 獄中のバトンタッチ —- あまりにも崇高であり、厳粛です。戸田先生から池田先生へのバトンタッチとなった「3・16」(昭和三十三年=一九五八年三月十六日)の儀式も、炭労事件、大阪事件とその後の裁判という「権力の魔性」との壮絶な戦いの渦中でした。

須田: 厳粛です。

名誉会長: もちろん、それは神力品の付嘱の儀式とは次元が違う。ただ、「師弟」がなければ「仏法」はないということは言えるでしよう。

斉藤: はい。釈尊も、自分は「妙法」を悟った。わが生命の底にある「宇宙大の生命力」を覚知し、「歓喜の中の大歓喜」を味わいました。
しかし、それを、どう全人類に伝えていくのか。
自分はいい。自分が生きている間も、まだいい。しかし、自分なき後はどうするのか。ここに仏教そのものの重大テーマがあったと思います。
仏教は徹頭徹尾、「人間の宗教」です。人間を離れた超越神とか、宇宙を一人で創造した創造神とかを説きません。どこまでも「人間」から離れず、人間に「汝自身に目覚めよ!」と、訴え続けるのが仏教です。
だから、神の意志とかは問題にならない。すべて人間自身の意志で決まる。
ゆえに、人間から人間への「師弟の継承」がなくなれば、仏法は生命を失ってしまいます。「付嘱」が重要なゆえんです。

遠藤: 師弟がなくなれば「法滅」です。

名誉会長: そう。「法滅」と言つても、本来、「法」そのものは永遠です。実際には、教法を正しく継承した「人」がいなくなったときが「法滅」なのです。

斉藤: 今の宗門が、まさにそうです。

須田: 師弟がなくなった。ゆえに仏法もなくなってしまいました。正法がなくなったのに、ある格好をして、威張っているのだから「魔もの」です。

名誉会長: 釈尊は、自分の死後の人々の幸福を考えたとき、「いかにすべきか」と悩んだと思う。そして結論として、釈尊は、自分の死後は、自分自身を仏にしてくれた「釈尊の師匠」である「永遠の妙法」そのものを師匠として修行せよと弟子に教えたのではないだろうか。前に「発迹顕本」のところで論じたことだが。<「法華経の智慧」第四巻>
その“遺言”を晩年、折にふれて釈尊は語った。それが後に、現在のような「法華経」としてまとめられたのではないだろうか。

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如来神力品から
日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん 是の故に智有らん者 此の功徳の利を聞いて 我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん  (法華経p584)

通解
(如来の滅後、法華経をよく持つ)人は、太陽と月の光明が、もろもろの闇を除くことができるように、この人は世間の中で行動して、衆生の闇を滅し、無量の菩薩を最後に必ず一乗の境地(妙法)に到達させることができるであろう。ゆえに智慧ある者は、この功徳の利益を聞いて、私(釈尊)の入滅後には、まさにこの経を受持すべきである。この人が、仏道を成就することは、絶対に疑いのないことである。
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遠藤: 釈尊の師とは「永遠の妙法」即「永遠の本仏」ですね。私たちは現代的にわかりやすく「宇宙生命」と呼ぶ場合もありますが。この「永遠の法」を師として修行すれば、だれでも自分と同じように仏になれるはずである。
「生きとし生けるもの」を幸福にする「大良薬」が、この「永遠の妙法」即「永遠の仏」である。これを教えておくから、この大良薬を服し、これを弘めなさい —- これが法華経であり、寿量品の心でした。

名誉会長: 焦点は完全に、釈尊の入城後にある。未来にある。未来の「広宣流布」にある。この一点を見失っでは、法華経の心はわかりません。

斉藤: 神力品も —- いな法華経の全体が、「付嘱」を中心テーマにしています。
特に虚空会の儀式では、そうです。宝塔品(第十一章)で、巨大な宝塔が出現したのも、涌出品(第十五章)で無数の地涌の菩薩が大地を割って躍り出てきたのも、寿量品(第十六章)で「永遠の仏」が説かれたのも、全部、付嘱のためです。

須田: 御義口伝には「妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(御書p770)と仰せです。
付嘱の意義がわからなければ、この途方もない虚空会の儀式は、おとぎ話になってしまいます。