投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月 7日(水)12時18分4秒   通報
§如来神力品§(1)
地涌の菩薩への「付嘱」 —- 広宣流布への荘厳な儀式
■ 全民衆よ! 汝自身の尊貴さに目覚めよ!

斉藤: これから、いよいよ「如来神力品(第二十一章)」です。法華経の”山場”です。よろしくお願いします。

池田名誉会長: 日蓮大聖人が涌出品・寿量品とともに、もっとも重要視されたのが、この「神力品」です。それは、ここに末法万年の「広宣流布」を託す儀式が説かれているからです。

斉藤: 広宣流布 —- これ以上、大切なものはありません。

名誉会長: そもそも法華経とは何だろうか。
それは「釈尊の遺言」です。釈尊が一番、言い遺しておきたかったことです。それでは、釈尊の一番の「悲願」は何だったのだろうか
それは「生きとし生けるものよ、幸福になれ!」という願いです。釈尊は言っている。
「母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」(『ブッダのことば —- スッタ二バータ』中村元訳、岩波文庫)
母が一人っ子を、命がけで守るように、あらゆる人を、あらゆる生命を幸福にしようと、命をかけて立ち上がれ!要するに、広宣流布に立ち上がることです。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(同) 「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(同)
私どもは、朝夕の勤行で、いつも「一切衆生の幸福」を祈つている。一切衆生とは、生きとし生けるものです。その幸福を祈っている。「崇高な境地」です。
祈るだけではない。行動している。その祈りを現実にするために「広宣流布」に動いている。「崇高な境地」です。

遠藤: 御本尊と創価学会のおかげで、いつのまにか、少しなりとも、そういう境地に近づくことができました。しかも、幾百万という人たちが —- 。不思議だし、すごいことだと思います。

須田: これ自体、広宣流布の偉大な実相ですね。

名誉会長: 地涌の菩薩でなければ、できないことです。その地涌の菩薩に、末法の広宣流布は頼むよ、と託したのが神力品です。

斉藤: 「付嘱」の儀式ですね。

須田: 付嘱とは、仏が教えを弟子に託し、この法を弘めていけ、と使命を与えることです。

名誉会長: 「付嘱」がなければ、仏法は師匠の一代限りで終わってしまう。それでは、どんなに偉大な「法」があっても、何にもならない。人を救うことはできない。
生きとし生けるものを慈しめ、と言っても、苦しみを救えないのでは観念論です。「法」を教えて、「人」を救うのが仏法です。
戸田先生は、牢獄から出られて、恩師を偲びつつ、一人、星空を仰ぎ、歌われた。

如意の宝珠を我もてり
これでみんなを救おうと
俺の心が叫んだら
恩師はニッコと徹笑んだ。

獄死した師匠・牧口先生の「心」を受け継いで、一人、「広宣流布」に立ち上がったのです。
しかも、牧口先生から戸田先生へのバトンタッチは、獄中であった。
昭和十八年(一九四三年)九月、牧口先生が警視庁から巣鴨の東京拘置所へ行かれるときが、最後のお別れとなった。
お二人とも囚われの身です。自由に、口をきくこともできなかつたでしょう。
戸田先生は「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでごぎいました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました」と述懐されている。<牧口先生の三回忌で>