投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月23日(水)09時25分27秒
■ 広布に励む信心が「不死の境地」

名誉会長: 私どもにとっては、広宣流布という大願に生き、つとめ励むことが、そのまま「不死の境地」なのです。それが寿量品を身読したことになる。「永遠の仏」といっても「如来」といっても、広布のために命を削る一瞬一瞬の戦いを離れてはないのです。その「瞬間の生命」こそが「如来」なのです。
戸田先生も、そうだった。教学の質問が、誰かからあれば、病床におられるときでさえ、体を起こして質問に答えておられた。
「おれはどんなに機嫌が悪くても、御書の質問さえすれば、機嫌が良くなるよ」と、よくおっしゃっていた。亡くなる寸前まで、そうでした。
ある支部長がいた。苦労を重ね、“たたきあげ”から実業家になった人です。
あの「3・16」(昭和三十三年=1958年)の登山に出発する前日、戸田先生は、その支部長に電話をされていた。「あすから、しばらく留守になるが —- 」と前置きされて、衰弱したお体で、三十分も、商売の在り方について教えられたのです。懇切丁寧に —- 。
数日後、今度は、その支部長が、商売の状況を報告しようと、先生に電話をかけた。その時、先生は本山で、重病の床にいらした。それでも、電話がかかっていることを耳にされるや、受話器を持ってくるように命じられた。
そして不自由なお体を側の一人に支えさせ、もう一人に受話器を耳に持ってこさせて、話をされたのです。ありがたい師匠でした。

斉藤: 戸田先生は、ご自身の死期をご存じであったとうかがいました。お手伝いさんの手記によると、戸田先生は亡くなる前年、こう語られたそうです。
「私はとっくに死んでる人間なんだよ。どこまで生きられるか、ためしているんだ」
「本当のことを言おうか。私は来年四月には死ぬ。いいや死ぬ」
戸田先生のご境涯を推し量ることなど、とうていできませんが、永遠の生命を感得されていた戸田先生が、最後の最後まで、深い「慈愛」に徹しておられた姿をうかがって、感動しました。

名誉会長: 「永遠の生命がわかる」ということは、必ず「慈愛」の行動に表れる。そうでなければウソです。すべての人の生命が釈尊の生命と同じだとわかった人は、自分の命を削って、そのことを伝えようとする。
仏の境涯とか、悟りとか言っても、その行動にしか実像はないのです。
牧口先生も、そうでした。
これは、ある婦人の入信間もないころの体験です。その方は一生懸命、折伏・弘教に励んでいた。親の病気で悩んでいた一人の友人を牧口先生のところに連れていった。牧口先生は「親に信心させることが最高の親孝行です」という話をしてくださった。その友人は即座に入信した。婦人は、友人と懸命に題目を唱え、友人の親は半年後に、実にきれいな相で亡くなった。「本当の親孝行ができてよかった」と、友人ともども喜んだ。
今度は、その友人の弟さんを折伏した。ところが弟さんは、信心すると決意したその晩に不慮の事故で亡くなってしまった。「信心すると決意したのに、すぐ死ぬとはどういうわけか」とびっくりして、婦人は、ただちに牧口先生の自宅にうかがった。
先生は、深夜にもかかわらず、「いっしょに行ってあげよう」と言われ、その夜のうちに来てくださった。そして、着かれるやいなや、「さあ、皆で一心に題目を唱えるのだ」と言われ、導師となって、長い間、題目を唱えてくださったというのです。その時、未入信の方も一緒に題目を唱えた。後日、その方も入信されたという。
「生死」の問題は、「こうなっています。こういう理屈です」と言うだけでは、解決しない。悲嘆にくれている、涙にむせんでいる、固く心を閉ざしている —- その人のために、身を粉にし、誠実を尽くしてこそ、心を「蘇生」させられる。「妙とは蘇生の義なり」(御書 p947)の実証が出るのです。

斉藤: よくわかりました。あと読者の方の参考のために日寛上人の臨終についても触れておきたいと思います。よく質問も受けます。日寛上人御書写の御本尊を拝んでいて、日寛上人について知りたいという方が多いようです。

名誉会長: 指導者は皆が知りたいということに、すぐ対応しなければならない。さっそく触れましょう。
■ 日寛上人の臨終の御姿

遠藤: 日寛上人の臨終といえば、有名なのは、おソバですね(笑い)。亡くなられたのは享保十一年(1726年)八月十九日の早朝。御年六十二歳でした。
日寛上人は御自身の死期を悟っておられたようです。亡くなる一両日前に、法衣を着けられ、病床から起きて駕龍に乗り、塔中をお別れの暇ごいで回られます。最初は本堂で読経・唱題され、墓前に行かれ、また隠尊の法主や新法主のところを回り、門前町経由で大坊に戻られます。沿道では、人々が別れを惜しんだといわれています。

須田: 戻られるや、大工に葬式の用意をさせて、棺桶の蓋にご自分で一偈一首をしたためます。

斉藤: 悠々たる御境涯ですね。

須田: 八月十八日の深夜、御本尊をかけ奉り、周囲の人に臨終に際しての唱題などの注意をされ、好物のソバを作るよう命じられます。そして、七箸、これを召し上がられ、にっこり微笑まれて、「ああ面白や、寂光の都は」と述べられます。その後、うがいをされて御本尊に向かい合掌し、十九日の辰の刻(午前八時ごろ)、半眼半口で眠るように亡くなられています。

斉藤: 詳しい記録が残るほど、当時の人たちも感動したのでしょうね。

名誉会長: ソバを食べられたのは、約束を果たされたのです。それは「鳩摩羅什は『死後、自分の舌が焼けなければ、自分が説いたことが真実であったと知れ』と言って死に、その通りになった。そこで私(日寛上人)はふだんからソバが好きだから、臨終の時に、ソバを食べ、一声、大いに笑って題目を唱えて死ぬことにしよう。もしも、この通りになれば、私が説いたことを一文一句も疑ってはならない」と語られていた。亡くなられる半年前です。〈亨保十一年二月〉

遠藤: それが、その通りの臨終だったわけですね。

名誉会長: また、この年の六月、日寛上人はこう語られている。
「今、大石寺は栄えている。題目を唱える人が増えている。まさに三類の強敵が起きるであろう。私は、この春以来、災いをはらうことを祈願した。ゆえに仏天があわれんで、私自身の病魔をもって法敵にかえられたのである。これこそ『転重軽受』であるから、何も憂うることはない」と。

遠藤: 金沢法難もこの年の春です。