鬼わ外 投稿者:鬼たいじ 投稿日:2015年 3月 1日(日)20時40分8秒   通報

ほらほらちょっと落ちすぎぃ(暴塊笑)
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京都乃鬼新聞
2015-2-18

紙上座談会(10)

赤鬼:本日、編集長は取材の為に不在なので、我々だけで進めよう。

橙鬼:前回、あのオッちゃん(編集長)も、たまにはエエ事言うとりましたなぁ。

青鬼:その座談会の最後で、鬼新聞編集長はこう言っていたな。
「今後は過去の先生のご指導内容について、そのご精神を踏まえて、我々弟子が依義判文しなくてはならないのではと思います。
学会執行部や学会教学部に任せっきりではなく、先生と共に戦ってきた我々弟子一人一人の『如是我聞』が大事だと感じますね。」

赤鬼:確かにそうだな。
当然、勉学は一生するものだが、我々弟子は、師匠の在世だからと言って、もっと力を付けようとか、訓練を受けようとか言う、もうそんな甘い時ではない。広布流布を具体的に進める指標は先生から完全に示されているんだ。

紫鬼:そうだな。これからは、あくまでも池田先生の精神、思想性を基準に判断して我々弟子は行動するべきだな。

赤鬼:その上で、前回から2回に渡り議論してきた新・人間革命、大道の章?で池田先生が書かれた「本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。」について、その意味を考えてみたい。

藍鬼:この四国の会合では、ここに書かれている通りのご指導があったかどうかという事については前々回⑧と前回⑨のこの座談会で議論尽くした。

橙鬼:そうや、ちょっと驚いたけど、だからと言って、ナンボ何でもやな、池田先生の原稿を誰かが意図的に汚すようなコトは出来ひんやろ。

赤鬼:そうだな。でも、もし仮に、当時、その通りのご指導が無かったとしても「されば八箇年の経は四十余年の経経には相違せりというとも先判・後判の中には後判につくべし」(御書P199)とあるように、「先判・後判の義」により、師匠が後年に書かれた内容に深い意味があると捉えたい。

青鬼:そうだな。「小説・新人間革命」なのだから、当時の状況を全て、精密且つ正確に書く必要はない。
先生の自由自在のご境涯、ご発想で書かれたんだから、きっと何か意味があるはずだ。

紫鬼:少し調べたんですが、この「本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。」とよく似た表現は、あの宗門とのヤヤコシイ時代(笑)、昭和52年にも先生はされていたんです!

橙鬼:えっ!そらビックリやな!でも、日蓮正宗の坊主どもがコレで大騒ぎしたという記憶はないなぁ。

青鬼:そうだな。当時は池田先生が生死一大事血脈抄講義の時、「戸田先生の地涌の菩薩としての自覚」と言っただけで、日蓮正宗から「地涌の菩薩の眷属と言え!」と言われる始末だった。

紫鬼:そうです。でもこれは同じ生死一大事血脈抄講義の中で言われていたんです。紹介します。

「ただ唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。というよりも、我が生命の中にある、大聖人のご生命、仏界の生命を涌現させる以外にないのです。」

藍鬼:本当だ。ここでは「我が生命の中にある、大聖人のご生命」との表現だが、今回の「本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。」と同じ意味、内容だな。

紫鬼:当然、宗門も揚げ足取りをしたかったのでしょう。
その証拠に「教学上の基本問題について」(6・30)に、日蓮正宗側がイチャモン付ける為に示した資料としてこの講義部分を引用してます。

しかも、この箇所の前後まで引用しているので、そのために長文の引用になってしまっているのにも関わらず、結局はこの文言にイチャモンを付ける事が出来なかったんです。

青鬼:この「6・30」は酷かったな。当時の学会執行部が弱腰だったため、池田先生の生死一大事血脈抄講義の「改訂版」を聖教新聞社から出版せざるを得なくなったぐらいだったからな。

紫鬼:ですが、その改訂版である「御法主 日達上人猊下御監修」(笑)の「『生死一大事血脈抄』の会長講義」のP63には、改訂されずに(笑)、そのまま載っているんですよ。(鬼笑)

藍鬼:一体何故なんだ?

紫鬼:これは日寛教学に基づいているからなんです。

「『正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人』とは本門の題目なり。『煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ』とは、本尊を証得するなり。中に於て『三道即三徳』とは人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり。『三観・三諦即一心に顕われ』とは法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人の所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすなり」(日寛上人文段)

簡単に通解すれば、
「人の本尊」を証得すれば、我が身は「蓮祖大聖人」とあらわれる。
「法の本尊」を証得すれば、我が身は「本門戒壇の本尊」とあらわれる。

青鬼:まさに日寛教学の真髄を先生はおっしゃっていたんだな。これでは宗門も何も出来ない(笑)

赤鬼:池田先生のご発想は徹頭徹尾、日寛教学が基礎になっているのは間違いないな。昔も今も、全く同じ立場でいらっしゃる。

橙鬼:なるほど。今回の学会の会則(教義)変更なんて、完全に日寛教学の否定の上に成り立っているんやから、この為に先生は、わざわざ新・人間革命に書かれて、警鐘を鳴らされているという考え方も出来るな!

青鬼:何れにせよ、先生のご精神は会員第一だ。会員が困らないよう、苦しまないように、いつも考えておられる。

黄鬼:そうだ!「一人を大切に!」とは、口ぐせの様におっしゃってる。

赤鬼:逆に会則変更して「多少の退転はやむを得ない、9割は付いてこれる」なんてことを言う奴は、先生の弟子では絶対に無い!

黄鬼:そうだな。会則変更について質問する会員がいたのならば、学会幹部は誤魔化さずに、誠意を持って丁寧に説明する義務があるはずだ。それが弟子の姿だろう。
つづく
提供は敵からは恐れられる、新たな敵からは疎まれる京都乃鬼新聞社でした。

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