投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月21日(月)08時05分32秒     通報
■ 「永遠」へ目を向けさせるもの

名誉会長: 「死」があるからこそ、「今」を大切に生きようとするのです。現代文明は「死を忘れた文明」と言われる。それが同時に「欲望を野放しにした文明」となったことは偶然ではない。一個人と同じく、社会も文明も、「生死」という根本の大事を避けていては、その日暮らしの堕落に陥ってしまう。
死を意識するか否かが、人間と他の動物との違いです。死を意識することによって、人間は人間になった。
このことはエドガー・モランの『人間と死』をはじめ、多くの学問的著作で明らかにされている。「死の重み」を忘れた生は、動物的な「軽薄な生」になっていく。

斉藤: そうしますと、個人にとっても、人類全体にとっても、「死」は単なるマイナスのものではないことになります。
むしろ、人間を「永遠なるもの」に向けていくプラスの力をもっている、ということになりそうです。

名誉会長: そう。寿量品には「方便現涅槃」という重要な法理が示されているが、その法理の一つの意味もそこにある。

須田: 「方便として涅槃を現ず」というのは、簡単に言うと「死は方便」ということですね。方便というのは、「手段」ということですから、「死は手段」という意味になります。

遠藤: では何の手段なのか、というと、「人間に永遠の仏を求めさせるため」の手段ということになります。

名誉会長: ありがたいことです。師匠は自分の死をも、弟子を救う手段とするのです。そこのところを、経文の上で再確認しておいたほうがいいでしょう。

斉藤: はい。寿量品では、釈尊の生命は「本当は永遠」であるが、衆生を救うために「方便力」によって涅槃を現すと説かれています。
つまり、仏の生命が永遠だからといって、ずっとこの世に仏が存在し続けると、衆生は仏の教えを求めなくなる、というのです。

遠藤: こうあります。
「若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賤にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ちキョウ(リッシンベンの右に喬)恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ」(法華経 p500)
〈もし仏が久しく世の中に住するならば、徳の薄い人は、善根を植えないであろう。また、貧しく賤しい生活に落ちこみ、眼・耳・鼻・舌・身が起こす五つの欲望にふけり、執着し、さまざまな間違った考えの網の中に入って(網にとらわれて)しまうであろう。もし如来が、常にこの世にあって入滅しないと見れば、すぐに驕りや、わがままな心を起こし、いや気がさして怠け心を抱き、「仏さまには、なかなか、めぐり会えないのだ」と慕う思いや、仏を敬う心を生じることができないであろう〉

須田: 確かに、自分の胸に手を当てても、「この通りだ」と思います(笑い)。

遠藤: 信仰心のある人でも、「最後は仏様が何とかしてくださるだろう」と甘えてしまうでしょうね