投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月20日(日)20時48分53秒     通報
■ 「死」ほど確実なものはない

須田: まさに「死を忘れるな(メメント・モリ)」ですね。それで、いつも心に引っかかっている御書の一節があります。
「生死一大事血脈抄」の「臨終只今にありと解りて信心を致して」(御書 p1337)のところです。「臨終只今にありと心を定めて」というのなら、わかるのですが、「臨終只今にありと解りて」と言われているのは、どうしてでしょうか。

名誉会長: 大事なところです。人間は誰しも、「いつかは」自分は死ぬと知っている。しかし、あくまで「いつかは」であって、まだまだ先のことだと思っている。青年はもちろん、年をとっても、否、年をとればとるほど、「死」から目をそらす場合がある。
しかし、人生の実相はどうか。実は人間、次の瞬間には死んでいるかもしれない。
地震、事故、急病その他、死の可能性は「いつでも」あるのです。それを忘れているだけです。

斉藤: 確かに、その通りです。世界の果てまで、宇宙の果てまで逃げたとしても、「死」から逃げることはできません。

名誉会長: 「死は自分の前にあるのではない。死は背中から自分に近づいてくる」と言った人がいる。
「いつか頑張ろう」「これが終わったら頑張ろう」と思っているうちに、あっという間に年月は過ぎ去ってしまう。気がついてみると、何一つ、生命の財宝を積まないで、死に臨まなければならなくなっている。それが多くの人の人生でしょう。その時に後悔しても遅いということです。

須田: 確かに、「三日後に、あなたは死ぬ」と宣言されたら、のんびりテレビなんか見ていられません。

名誉会長: しかし、よく考えてみれば、三日後が、三年後であっても、三十年後であっても、本質は同じなのです。ゆえに、いつ死んでもいいように、「今」を生きるしかない。
また永遠から見れば、百年も一瞬です。文字通り、「臨終只今にあり」なのです。戸田先生も「本当は、死ぬときのために信心するんだ」とおっしゃっていた。

須田: よくわかりました。

名誉会長: 何が確実といって、「死」ほど確実なものはない。だから、今、ただちに、三世永遠にわたる「心の財」を積むことです。その一番大事なことを「あと回し」にし、「先送り」して生きている人が人類の大半なのです。
生死一大事というが、生死ほどの「一大事」は人生にない。この一番の大事に比べれば、あとはすべて小さなことです。そのことは「臨終」のときに実感するにちがいない。多くの人の死を看取ってきた、ある人が言っていた。
「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きてきたか、だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわぁーっと追ってくる。それが『死』です」と。

斉藤: その「人間として」の部分とは、十界論でいえば、自分が何界の生命なのか、自分の基底部のことですね。こういう話を聞くと、生命を高めに高めておかないといけないという思いが強まります。

名誉会長: その意味で、「死」を意識することが、人生を高めることになる。「死」を自覚することによって、「永遠なるもの」を求め始めるからです。そして、この一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる。

遠藤: どこか原稿の“締め切り”に似ていますね。いやなものですが、やはり締め切りがないと原稿はなかなか書けないのも事実です。いつでもいいと言われたら、私なんか、まず書けません。

須田: 試験の期日もそうです。教学の勉強も、試験がないと「いつかやろう」「いつかやろう」と思って、先のばししてしまいます。

名誉会長: もし「死」がなかったら、どうなるか。さぞかし人生は間のびして、退屈なのではないだろうか。

斉藤: 緊張感がなく、のんべんだらりとするでしょうね。

遠藤: 人口問題だって大変です(笑い)。

須田: 三百歳になって体も動かないのに、死ぬことができない —- 秦の始皇帝は不老不死の薬を求めたそうですが、反対に皆が「死ぬ薬」を求め始めるかもしれません(笑い)。