投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月12日(土)12時06分59秒     通報 編集済
十界互具(下)
人間、この素晴らしきもの
■ 「仏界の大地」で広布のドラマを名優のごとく!

斉藤:  青年部の一級教学試験が終わりました(1997年八月)。二十一世紀の幕を開く「新しい人材」が、「新しい舞台」へと躍り出ました。

名誉会長: 合否を問わず、真剣に御書を学び抜いた人が「勝利者」です。また「広宣流布の宝」です。
夏休みを返上して、受験する後輩の面倒をみてくれた先輩たちがいたことも、よく知っています。その労苦の汗は、どれほど尊いか。
試験に受かろうが受かるまいが、これからが、青年の勝負です。縦横無尽に、一人でも多くの人に、大仏法を語り抜いてもらいたい。

遠藤: そうでなければ、何のための試験か、ということになりますね。

名誉会長: 戸田先生が亡くなられて(昭和三十三年=1958年四月二日)、一番、最初に行った全国行事が任用試験(四月六日)だった。
まだ告別式(四月八日)も終えていない、大師匠を失った悲嘆のなかで、予定を変更することなく、厳然と行われたのが教学試験だったのです。全国六十余都市の会場で、多くの同志が受験した。世間は、先生なき後の学会を、さまぎまに揶揄し、中傷した。その最中でも、学会は、ひたぶるに「行学の二道」を歩んだのです。

須田: 世間では「学会は空中分解する」と言われていました。他宗教の僧侶や学者たちも「彼(戸田先生)亡き後の創価学会は少しも恐ろしくない」「これから戸田氏在世当時のように創価学会がゆけるかと言えば到底それは考えられない」と。

遠藤: 折伏の闘士がいなくなったことに、「ほっとした」と、もらした仏教学者もいました。

名誉会長: 内外ともに、どれほど戸田先生を、偉大な指導者と見ていたか。その証左と言ってもよいでしょう。

斉藤: しかし学会は「空中分解」するどころか、いよいよの勢いで、弘教・拡大を開始していきました。まさに池田先生を中心に「行学の二道」を、まっしぐらに進んだたまものだと思います。

名誉会長: あれは、確か昭和二十五年(1950年)の暮れだったと思う。私は二十二歳だった。戸田先生の事業の蹉跌による苦しみは、まだ続いていた。もちろん、先生の会長就任もまだです。学会員の中にも、借金を抱えて苦労している戸田先生を見かぎり、離れていく人間も少なくなかった。
そんななか、戸田先生と私は、所用で湘南電車に乗った。二人だけの旅だった。車中でも、いつも勉強です。この日は「観心本尊抄」だった。日寛上人の文段を拝しながら、「観心の本尊」の功徳の広大無辺なることを、戸田先生は語ってくださった。
車窓から広大なる太平洋が見えた。戸田先生は言われた。「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御書を拝することだ。そうでなければ、凡夫が御本仏の御心に近づくことはできないのだ」と。
御書は、ただ才智で読んでもわからない。全生命をかけた「信心」で拝していきなさいとのお話だったと思う。明日も見えない苦境の中で、実に悠々たるお姿でした。
青年部をはじめ教学を真剣に学んでいる方々のために紹介しておきます。

斉藤: ありがとうございます。