投稿者:The logic in the place    投稿日:2015年 9月 6日(日)21時38分37秒     通報 編集済
かなり前から、彼のホームページで日蓮本仏論に関わる考察が掲載されています。
たとえば、以下を参照

「SGI各国のHPの教義紹介の差異について」

1 前書き

私は『日有の教学思想の諸問題』において、日蓮本仏論に関して、必ずしも創価学会が採用する必要がないことを、学問的理由と海外布教という2つの理由から述べた。学問的理由に関しては、上記論文、ならびに「漆畑正善論文『創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ』を検討する」、「日興の教学思想の諸問題(1)資料編」で論じているので、私の議論に何か問題点を感じた人は大学のメールアドレスへ連絡していただきたい。
海外布教上の理由については、統一神霊協会の文鮮明とキリスト教の事例を出して暗示的に示したにすぎない。私は新潟短期大学に在職していたころ、東洋哲学研究所の研究員を兼務しており、SGIの広報から、東洋哲学研究所に、海外のSGI会員向けに、コンパクトな教義書を発行したいという趣旨の協力依頼があったので、何人かの研究員とともに、教学部のメンバーなどと一緒に『創価学会の理念と歴史』の作成準備に関わったことがある。その時代は、第一次宗門問題以後の日蓮正宗による教導という名の下の言論統制の時代であったから、細井日達から阿部日顕へと代替わりし、多少は統制が緩んだとはいえ、教義に関しては日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』を踏まえて書くように指示された。ただ作業としては、とりあえず、それぞれが担当した部分を学問的研究に基づいて書き、その原稿を執筆者の会議で検討し、最終的にそれと『日蓮正宗要義』の整合性を図るという手順で進み、それなりの原稿も蓄積された。その後第二次宗門問題が生じ、『創価学会の理念と歴史』が出版されることはなかったが、その原稿の一部は南山大学宗教文化研究所編『カトリックと創価学会』(第三文明社刊)の「創価学会の宗教的理念と宗教対話」という私の論文に使用させていただいている。(もちろん、この論文は第二次宗門問題以降の論文なので、日蓮正宗への教義的配慮は捨てられ、創価学会の教義的オリジナリティ、アイデンティティを主張する趣旨へと変更されている。)
『創価学会の理念と歴史』の作成において、他に留意すべき点として、海外において日蓮本仏論を強調することは、SGIが仏教団体ではなく、仏教から派生した異端のカルト団体とみなされる可能性があるから、その表現に注意してほしいということであった。日本国内においては、日蓮正宗は700年の歴史があり、日蓮本仏論を主張してもカルト団体とは社会的に認定されないが、世界の仏教全体の中で、釈尊以外の歴史上の人物を釈尊より上位の仏として主張することは、他の仏教宗派から、さらには諸外国の仏教諸派が加盟する仏教協会からは仏教的主張とは見なされず、そのことが社会的にSGIを非仏教団体と認定する根拠となるだろう。大日如来や阿弥陀如来は歴史上の仏ではないから、それらを本仏とする仏教宗派はさほど問題されることもなく、またダライ・ラマが観音菩薩の化身であるという信仰は、まだ釈尊より下位の菩薩であるから許容範囲である。しかし日蓮は歴史上の人物であり、日蓮本仏論はその日蓮を釈尊より上位の仏として主張することであるから、海外のSGIの運動をカルト批判という脅威にさらす可能性がある。
もちろん日蓮本仏論が日蓮自身の重要な主張であるならば、弾圧覚悟でその主張を維持することが、宗教的使命であると思うが、日蓮自身の真蹟遺文や信頼できる直弟子写本にも、そのような思想の形跡が見られないのであれば、そのような後代に派生したと思われる教義のために弾圧を受けるのは、世界広宣流布のためには障害にしかならない。
私は南山大学宗教文化研究所と東洋哲学研究所との合同シンポジウムで上記論文を発表したとき、日蓮本仏論を採用せず、多くの学者と同様に、真筆遺文の趣旨にしたがって、日蓮を上行菩薩の再誕と位置付けたばかりではなく、日蓮自身の主張であっても、歴史学的、仏教学的には受け入れられていない、法華経=釈尊直説論、ならびに天台大師の説でもある五時教判論、ある時期から中国、日本で主張されてきた『周書異記』による仏滅年代を紀元前10世紀とする説、そこから派生する日蓮末法誕生説などを採用せず、歴史学、仏教学と整合性をもった創価学会の教義についての試論を述べた。
その議論の骨子は、釈尊は衆生救済という慈悲心から仏教の救済理論を主張しだしたこと、その釈尊の主張にインスピレーションを受けて、大乗諸経典が釈尊滅後に編纂されたこと、その中でも特に『法華経』には一切衆生の成仏を認めるという平等思想が見られること、そして天台大師は『摩訶止観』において、有情(衆生)のみならず無情(感覚作用を持たない植物、無生物)にも成仏の可能性を見出し、それを一念三千論として展開したこと、日蓮はその一念三千論を理論的基礎にして、修行の方法として、多くの人にも実行可能な唱題行を含む三大秘法を提示したこと、日蓮死後、特に江戸時代の宗教統制によって、日蓮仏法も葬儀中心の仏法になったこと、牧口常三郎、戸田城聖が葬式仏教と化していた日蓮仏法を生命論という理論フレームで解釈しなおすことにより、人々が平等に成仏できることをそれなりに実感することができるように運動化したことである。(なお詳細に関しては上記『カトリックと創価学会』の私の論文を参照していただきたい。まだ絶版となっていないようだから、書店で注文すれば入手できると思われるし、アマゾンにも中古本が出品されている。著作権法上の理由で、上記論文をネット掲載することはできないので、論文骨子で許していただきたい。)
私は、学術者としての宮田教授の探求は、正論であり、対外的に池田先生を「池田」と表記されていることにも違和感はありません。当たり前の論文表記です。これを「池田大作先生はこうおっしゃている」なんて学術者の立場として書いていたら、そりゃもう北朝鮮でしょう(笑)。

また、牧口研究に関わる書物も、すぐれた洞察力と認識があったものと評価しています。
しかし、「信ずる」という信仰者の点から観ると、???でした。アルベア様はどう評価されますか?

「信ずる」「人を信ずる」、「御本尊を信ずる」等、それは、宗教の世界にあって必要不可欠なものなのですが、四人組を含む最高幹部やらその僕は、皆無(笑)、だから、正論弟子であるこの板の皆さんは、むちゃくちゃ違和感を感じるのです。

大学の講義なんですから、仕方ないか~と大目に観て、我々は彼のサイトのPDF(むちゃくちゃ難しいですが)を良く読んでから、皆で討論しましょうよ!