投稿者:まなこ   投稿日:2015年 9月 1日(火)12時24分37秒     通報
■ 大歓喜の太陽は昇った —-

斉藤: 釈尊の戦いの最中、日没の時と真夜中と夜明けにわたって、三つの詩が釈尊のロから発せられます。三つの詩の内容について、仏教学者の玉城康四郎博士は、「ダンマが顕わになった」と表現しています(『仏教の根底にあるもの』講談社)。
「ダンマ(ダルマ)」とは「法」の意味です。宇宙の根源の「法」が自分自身に顕わになり、人格に浸透し、生命を貫いたということでしょう。

須田: 日没の時の詩は、「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれは縁起の法を知っているから」(玉城康四郎著、前掲書)。
真夜中の詩は、「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、かれの一切の疑惑は消失する。というのは、かれはもろもろの縁の消滅を知ったのであるから」(同)。
夜明けに発せられた最後の詩は、「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすがごとくである」(同)でした。

遠藤: 我が胸中に太陽は昇った! —- 歴史的な瞬間ですね。

名誉会長: 人類を照らす歓喜の旭日です。仏界とは、最高の歓喜の境涯です。
釈尊はこの後、法悦の時を経て、決然と説法を開始する。ただ、この胸中の法をいきなり説いても、衆生には到底、受け入れ難い。そこで、皆に分かりやすい方便の教えを説き、機根を整えていったのです。
そして、この太陽の大境涯を、そのままストレートに説いたのが寿量品です。寿量品は、いわば“大歓喜の章”といえる。釈尊の一生のクライマックスです。
■ 「境涯の大宇宙」を象徴

斉藤: 寿量品では、釈尊の永遠の寿命を説く際に、無数の「三千大千世界」という壮大な宇宙空間を用いて表現しています。これは釈尊が獲得した、果てしない生命空間を象徴しているのではないでしょうか。

名誉会長: そうかも知れない。釈尊が自身の内に見た「永遠の法」即「永遠の仏陀」 —- すなわち仏界の境涯の広大さが、宇宙空間によって、生き生きとイメージできるようになっている。

須田: 経文では、五百塵点劫のところですね。こうあります。 —- 五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界の国土を、ある人が粉々にすりつぶして塵として、東のほうへ五百千万億那由佗阿僧祗の国を過ぎるごとに一粒を落とし —- と。

遠藤: 確かに、単に“水遠だ”と言われても、なかなかピンときません。「三千大千世界を微塵として —- 」と言われると、映像が浮かんで“すごい境涯だなあ!”と、わずかながら実感できます。まるでロケットに乗って宇宙を、ぐんぐん旅していくような気持ちになります。

斉藤: 寿量品での「生命的空間」は、果てしない歓喜の境涯ですね。瞬間瞬間が楽しい。そのため、「生命的時間」は、永遠といっても極めて短く感じられています。

名誉会長: 生命的時間というのは、やさしく言えば、実感としての時間、ということだね。

遠藤: はい。例えば「地獄界」の境涯とは、歓喜が極小、ゼロの境涯です。生命的空間も“獄”に囚われているように、限りなく小さい。生命的時間は、もどかしいくらい、ゆっくり進みます。

須田: たしかに、歯が痛い時など、一分が一時間にも感じられますね(笑い)。

遠藤: 反対に、仏界の歓喜は、汲めども尽きない大きさをもっています。ゆえに生命的時間は、限りなく短い。

斉藤: 時間といっても、填涯によって進む速度が違う。生命的時間は“相対的”であると言うことですね。

名誉会長: 生命流のエネルギーが大きいほど、生命的時間も勢いよく進むのです。次元は違うが、アインシュタイン博士の相対性理論でも、時間は“相対的”であるという発見があった。
例えば寿量品のように、宇宙空間をどんどんロケットで進んで行くと、スピ-ドを上げるにつれて、時間の進み方も変わってくるのだね。その一例に、たしか「ウラシマ効果」というのがあった。

遠藤: はい。「ウラシマ効果」は、相対性理論から導き出される仮説です。光の速さに近いロケットに乗って宇宙旅行に出かけたとすると、地球では何年も経過しているのに、ロケットの中では、例えば一日しか経っていない —- という現象が起きるというのです。すると、宇宙旅行から帰ってきた人にとっては、まるで「浦島太郎」の話のように、故郷の時間が過ぎ去ってしまっているわけです。