投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月29日(土)14時19分58秒     通報
■ 毎朝・毎夕に「顕本」

遠藤: 「御義口伝」に「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」(御書 p737)という傅大士の釈が引かれています。御本尊根本に生き抜く私たちは、この言葉を、どんな仏教学者よりも深い実感で受けとめることができますね。

名誉会長: 時々刻々の「顕本」です。私どもは毎朝・毎夕、発迹顕本しているのです。久遠の大生命を己心にわき立たせて、広宣流布へと前進している。それ自体が、総じては、日々、寿量品を身で読んでいることに通じるのです。

斉藤: 釈尊が残した精神の水脈は、二千年の間に「人間」から離れ、枯渇しつつあった。それを万年の大河へと蘇生させたのが大聖人の人間主義なのですね。

名誉会長: そう。“聖なる権威”に人間を跪かせる一切の思想・宗教を打ち破って、人間自身の内なる“聖なる大生命”を聞かせたのです。だから大難があった。大人権闘争であり、大師子吼です。
「諸法実相抄」には「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(御書 p1358)と仰せです。
この深義については、さらに論じていくことになるが、凡夫こそ本仏と言われている。「仏教の人間化」の究極の宣言と拝したい。日蓮仏法こそ、二十一世紀から始まる「第三の千年」を、そして末法万年を照らしゆく「人間宗」なのです。
本門の心 —- 永遠に続く「絶対的幸福」を確立
■ 今世のみの「相対的幸福」は根なし草

須田: 1997年の春、地球に最接近したヘール・ポップ彗星は、多くの天文ファンを楽しませてくれました。次に“帰ってくる”のは2400年後だそうです。

遠藤: 片や、人間の一生は、百年あるかないかです。今の人類が、もう一度、この彗星に出あうことはできないんですね。

斉藤: 壮大な宇宙の営みを思うと、今ここにいる「自分」とは、一体、どんな存在なのかと、しみじみ考えてしまいます。おそらく、多くの人が、そうだったのではないでしょうか。

名誉会長: みんな、意外とロマンチストなんだね(笑い)。難解な教学の勉強も必要だが、たまには星を見たり、月を見たりして、一句でも詠もうかという心のゆとりが大事だ。心広々と、大宇宙を見つめることは、自分の人生を見つめることにもなる。

須田: はい。日常生活に追われていると、「大宇宙の中の自分」というスケールで、自分を見つめる機会は、なかなかありません。小さなことで悩んでいる自分、きょう、あすのことだけで精一杯の自分 —- と、どうしても、狭いワクから出られないものです。

名誉会長: だからこそ信仰が必要なのです。戸田先生が亡くなる前の年(昭和三十二年=1957年)、ソ連が人類初の人工衛星(「スプートニク」一号)の打ち上げに成功した。世界中が、この話題で、もちきりだった。
この時、戸田先生は、大騒ぎする周囲の人をたしなめて、「なんだ、そんなに騒ぐことではない。ちっちゃな星が、一つふえただけの話じゃないか」と笑っておられた。「仏法で説く大宇宙から見れば、小さな小さな豆粒みたいなものだ」と。
大宇宙をも、ご自分の庭のように話される先生に、仏法のすごさ、先生のスケールの大きさを感じたものです。国と国との争いにせよ、人間は小さなことで大騒ぎするし、一喜一憂するものです。その心の小ささが、不幸を生んでいる。
日蓮大聖人は、時代とともに「広き心も・せばくなり道心ある人も邪見になる」(御書 p1095ページ)と仰せです。狭くなってしまった心を広げるのが仏法であり、広宣流布の運動なのです。
心を広げる —- その究極は「一念三千」です。わが己心が大宇宙と永遠に一体であることを体得するのです。仏法は、そのためにある。そして日蓮大聖人は、寿量品の発迹顕本がなければ、真実の「一念三千」にはならないと仰せになっている。それは、なぜなのか。ここでは、もう一歩深く、「発迹顕本」について論じていこう。