投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 8月26日(水)12時04分42秒     通報
ヨハン・ガルトゥング博士
「日本には何かに反対するムードで覆っている。政府が恐れるのは反対ではなく代替案を国民が出してくることだ」

創価学会の改革においても、反対は反発、批判として受け取られる傾向にあり、それでは身構えられてしまう。結局は、組織といっても人の集まりでしかないから、優先されるのは「人の感情」である。反対する人間に対し、「じゃあ、どうすればいいの?」と切り返してしまうのが人間の性であり、それを提示することができなければ、上を納得させることは難しい。下から上を動かすということは、そういうことであり、一から十まで、手取り足取りやってあげる覚悟がなければ、改革は成功しないであろう。まことに世話の焼ける話である。

役職とは役割であり、組織の決定権を意味する。広宣流布推進のヒントは現場にはいくらでもあり、有役職者が「現場の声を聴く」ことによって、よりよいシステムを構築していくところに責任を果たす道がある。官僚的な人間はそういった声を押しつぶす方向に流れ、人間主義の人間は、反対や批判、愚痴ですら価値へと転換する。有役職者が、「じゃあどうすればいいの?」と聞くのは愚かであり、ヒントはちりばめられているのだから、「自分で考える」というが正解である。しかし、それを期待していたら日が暮れてしまう。

そもそも然るべき立場の人間が、話を聴き、本質を見極め、物事を考えていくことができるのであれば、改革する必要性すら感じないであろう。幹部が人間主義なのか、それとも組織主義なのか。組織の意向に合わせることがすべてで、それが「団結」であるという、短絡的な考えの幹部ばかりになると、現場の人間が苦しむことになる。そういう幹部は答えが決まっているので、話し合うことができない。そこには信心の自立も、リーダーとしての資質もない。自分の考えがなくなると、組織の意向=正義となり、画一的で、官僚的な人間となっていき、価値創造の弊害となる。

組織の意向がなんであろうと、おかしいものはおかしいと言えることが民主主義であり、真の創価学会です。それが当たり前であり、あらゆる考えを包含できてこそ世界宗教である。人間主義であり続けるには、壮絶な戦いと努力が必要であり、それが本門の池田門下のスタンダードな意識といえましょう。官僚主義から人間主義への脱皮こそが課題であり、それを推進することが、クレメンツ博士の「期待」に応えることであると、私は思うのです。