投稿者:河内平野   投稿日:2015年 8月23日(日)11時27分11秒     通報
平和なときは、例えば我が国の場合、憲法によって人格の尊厳は
冒すべからざるものと認められ、各人の権利が保障されている。

だが、もし、いわゆる国家にとっての非常事態になったときには、
思想や言論の自由ばかりでなく、自分の希望によって住み、仕事をする権利すら国家の意志によって奪われる。

これでは、平和時の人格の尊厳性の保障ということ自体、本物ではなかったという以外あるまい。

例えば、自らが所有している家であれば、だれからも出ていけといわれる心配がないはずである。
出ていけといわれた時には出なければならないということは、自分が所有者でなく、借りている家だということである。

思想、言論、職業、居住の自由にまつわる権利も、要求された時には捨てなければならないとすれば、
それは個人の人格の尊厳性に必然的に備わったものではなく、国家から一時的に貸与されたものだということになってしまう。

これは、個人の尊厳とか人格、生命の尊厳とかという謳い文句自体、まやかしにすぎないことを物語っている。

私達は、こうした、まやかしの尊厳性に酔いしれていてはならない。
まごうことのない、真実の人間の尊厳、人格、生命の尊厳性を勝ち取るべきである。

この自覚と、強い意識に人間が立ち上がっていったとき、
人々の生命と財産を危険にさらす戦争は、その根を断ち切られることになるはずである。

ただ、一口に個の尊厳の回復といっても、そう簡単なことではない。
むしろ難事中の難事といったほうがよい。

また平和といっても、今まで触れてきたように、人々の心中深く根を下ろしたものでなければ、
戦争と戦争との間の幕間のようなはかないものである。

私はその意味からも、一個の人間の偉大さを徹底して解明し、確認した力ある理念が要請されてくると思う。

【論文「二十一世紀への平和路線」池田大作  1979年2月 (池田大作全集一巻)】