投稿者:KS部OB    投稿日:2015年 8月15日(土)15時17分3秒     通報
【全国最高協議会 ②】(2006.9.22)

一、今、全国で、間近に迫った「青年部教学試験2級」に向けて、懸命な研鑽が続いている。尊き奮闘の様子は、よくうかがっている。
御書には、平和への光がある。希望の哲理がある。正義の力がある。勇気があり、慈愛があり、不滅の大確信がみなぎっている。
その一言一句を、日々の激闘のなかで、わが生命に刻みつけるのだ。
有名な「佐渡御書」には、「鉄は炎打てば剣となる」(御書958ページ)とある。鉄は、炎のなかで鍛えられてこそ、輝きわたる剣となる。
信心という「無敵の宝剣」を磨き抜くのは、青春時代の今しかない。
どうか、最後の最後まで、使命深き自身のために、悔いなき挑戦を貫いていただきたい。
皆、応援を頼みます! (大拍手)

一、私は強く決意している。
多くの青年たちが、希望に燃えて進んでいける大舞台を、日本中、世界中に堂々と築きたい。

広宣流布の法城の整備も一段と進めてまいりたい。
青年を大事にしなくてはいけない。軽く見るのは、とんでもないことだ。青年を真剣に育てていきたい。
また、若い皆さんにとっては、すべてが勉強だ。決して、遠慮してはいけない。遠慮したら、力は出ない。中途半端では悔いを残す。
とくに新任のリーダーは、最初が肝心である。
「思いきって」やることだ。勢いよく、思う存分、動くことである。
わが地域に希望の春が来た! ── そうやって皆が喝采する歴史をつくってもらいたい。
先輩の皆さんは、後輩を温かく見守り、もり立てていただきたい。
「責任は、私がとる。思いっきり、どんどん、やれ! 頑張れ!」。そう言える度量を、先輩はもつべきだ。
ともあれ、これから先の数百年間、21世紀はもちろん、22世紀、さらには25世紀くらいまでを展望して、平和と文化のために、皆が心広々と戦っていけるよう、あらゆる手を打ち、完壁な基礎をつくりたい(大拍手)。

一、「開目抄」には仰せである。
「伝教大師は奈良の諸宗の人々に『最澄(伝教大師)は、まだ唐の都を見ていない』と言われた。これらはすべて法華経のゆえであるから恥ではない。愚人にほめられることは第一の恥である」(同237ページ、通解)
まことに重要な御聖訓である。
伝教大師の時代(8世紀後半~9世紀前半)は、仏法をはじめ、あらゆる文化を求めて中国に渡る「入唐」が盛んだった。
今でいえば、海外の有名大学に留学して、最先端の学問を学ぶようなものともいえよう。
伝教大師は、日本にいるうちに、諸宗を広く学び抜き、法華経を第一とする天台の教えの精髄を深く把握していた。
そして、その奥義を確認し、人々に伝えるために、勅命を得て、中国に渡った。
ゆえに伝教大師は、入唐中の8カ月間、法華経の精髄が伝わっている天台山などで、学ぶことに専念したのである。
それを〝唐の都を見ていない〟などと批判するのは、仏法の正道を知らない、見当違いの言いがかりであった。

一、御本仏である日蓮大聖人は、海外には行かれていない。日本で仏法を習い究めていかれた。
「(日蓮は)遠国の者・民が子」(同1332ページ)と誇らかに叫ばれ、五濁悪世の日本の真っただ中で、仏法の大革命をなされたのである。
この民衆仏法の尊極なる魂が脈打っていたからこそ、大聖人の仏法は広宣流布してきたのだ。
学会も、この大聖人の御精神を、永遠に持ち続けなければいけない。
あの50年前の「大阪の戦い」でも、私とともに、多くの民衆が立ち上がってくれた。無名の庶民が、勇猛果敢に戦い、不可能を可能にして勝ったのだ。
常に「師弟」をど真ん中にして、にぎやかに勝利へ突き進む。これが大関西の魂である。
ともあれ、一番大事なのは民衆だ。そして、戦う心である。
格好や形式ばかりにとらわれ、本当の開拓精神を忘れては、絶対にならない。

一、「学歴」は、信心とは関係ない。
しかし、「学問」は大事だ。「一切の法は皆是れ仏法」であるからだ。
わが愛する、優秀な学生部員たちが、多くの大学で真剣に学んでいる。また、海外に留学し、世界に雄飛する青年たちのために、私は全力で道を開いてきた。
学べ! 学べ!
大いに学べ!
徹して学べ!
大いなる理想のために学ぶのだ。信心を根本に、学ぶことである。
学生部が結成されたとき、戸田先生が、どれほど喜ばれたことか。
先生は言われた。
「学生部は、校舎なきユニバーシティーだ。
世間の大学は、学問を詰め込むが、ここでは、人間の中身を詰め込んでくれる」
さらに先生は、「一念三千の大哲理」は創価学会の中でしか学べない。世界で唯一の人間学の殿堂であると断言された。
今、〝創価の大学校〟の中で、老いも若きも、大学に行かなかった方も、皆、生き生きと、仏法の人間主義を、平和と文化の道を学んでいる。
戸田先生は、強く深く語っておられた。
「妙法という最高の法を受持した諸君は、いかなる高位の人間よりも、はるかに尊貴な『信心の王者』『人生の皇帝』『生命の帝王』なのである」と。
この言葉を、私は万感の思いを込めて、すべての同志に贈りたい(大拍手)。

一、本当に偉大な先生であった。
そして、厳しい先生であった。
地位や権威を鼻にかける人間には、ことのほか厳しかった。
傲慢な人間に対する先生の怒りは、それこそ、雷が落ちるような激しさであった。
大難のなか、私は必死の思いでお仕えした。あまりの厳しさに、逃げ出す者もいた。先生は「去りたい者は去れ!」と一喝されていた。
だれよりも庶民を愛したがゆえに、だれよりも庶民の敵を許さない ── そういう先生だった。
ともあれ、民衆を馬鹿にし、私利私欲に走る人間とは、断固と戦うことである。邪悪を追及し抜くことである。
悪と徹底的に戦うことが「善」である。
反対に、悪と戦わない。見て見ぬふりをする。これでは、厳しく言えば「同罪」になってしまう。
いくら表面は人が良さそうに見えても、内実は、善の勢力を破壊する悪の存在になってしまう。

一、人の尊さは、地位や立場では決まらない。こうした仏法の人間観は、世界の英知と響き合う。
古代ローマの哲学者セネカは言った。
「人間を評価するのに、ただ着物か地位だけからするならば、それは大馬鹿者です」
「心のみがわれわれを高貴にします」
「心が没落したならば、他のものも結局は滅亡に帰します」(茂手木元蔵訳『道徳書簡集』東海大学出版会)
私が若き日からひもといてきた書に、フランスの思想家ルソーの名著『エミール』がある。そこには、こう記されている。
「これまでわたしは身分、地位、財産などの差別をみとめていないが、これからもいままで以上にみとめるようなことはほとんどしないだろう。人間はどんな身分の人間でも同じだからだ」(今野一雄訳、岩波文庫)
インドネシアやマレーシアなどに伝わる、庶民の英知の格言には、こうある。
「稲のように熟するほど頭を垂れよ、葦のようにますます頭を高くするな」(『世界ことわざ大事典』大修館書店)
地位が上がるほど、謙虚に自身を律していけ、ということである。
ロシアの文豪ゴーゴリは語った。
「今のわたしにはあらゆる職務が平等であり、下から上までのあらゆる地位が、それらをよくよく眺めさえすれば、同じように重要であることが分る」
「どのような地位にいても多くの善をなすことができるのである」(灰谷慶三訳「評論」、『ゴーゴリ全集6』所収、河出書房新社)
いわんや、広宣流布をなしゆく同志は、いかなる立場であれ、皆、平等であり、皆、重要である。
中国の民主革命の父・孫文は訴えた。
「第一に人民をして主人たるの地位を恢復せしめ、一切の公僕をして其の能を尽して人民の為に服従せしめざる可からず」(外務省調査部訳『孫文全集 第7巻』第一公論社)
まったく正しい叫びである。民衆こそが主人公である。すべての指導者は、民衆に仕えるためにいる。
立派な教育を受けた人間は、その力を、人々に君臨するためでなく、人々に奉仕するために発揮すべきなのだ。
インド独立の父マハトマ・ガンジーも戒めている。
「若し吾々が高い地位を占めたとしても、自己の優越を誇ったり、眼下の人を見下してはならない。吾々は眼下の人が働くと同じように働かねばならぬ」(福永渙訳『ガンヂーは叫ぶ』アルス。現代表記に改めた)
さらにアメリカの詩人ホイットマンは謳っている。
「一般に、特権を備えた特別な地位を獲得するために大衆から抜きん出ようとする野心が存在する。
しかし人生の真の巨匠は、大衆の単なる一部であることに偉大さと成功を見る。共通の地盤ほどよき効用のあるものはない……」(青木順三訳、トーマス・マン著『講演集 ドイツとドイツ人 他五篇』岩波文庫から)
人生の最後の最後まで、大衆とともに、大衆のために、そして大衆の中で、戦い、殉じていく人生こそが、最も高貴なのである。
インドのネルー初代首相は、こう指摘した。
「自惚れというものは、人間のからだの脂肪のように、知らないうちに次第にふえていくものであって、それにとりつかれた人は毎日これがふえてゆくのを自覚しない」(磯野勇三訳『ネール自伝1』立明社)
まことに巧みな比喩である。
人は、気づかぬうちに堕落していく。ゆえに、あえて自己に厳しく、謙虚に心を鍛えていく努力が必要である。
また、名作『若草物語』の作者として知られるオルコットは、小説の登場人物に次のように語らせている。
「名声というものは多くのひとがほしがって海にもぐり、ほんのすこしのひとしか得られない真珠のようなものです。
それを手に入れるとこんどはもっともっとと望むようになって、それを獲得するためにあくせくしてもっと大事なものを失うようになってきます」(吉田勝江訳『第四若草物語』角川文庫)
聡明な言葉だ。
見栄を張り、名声ばかりを追い求める人生には、決して真の満足や充実はない。むしろ、絶えず、むなしさがつきまとうものだ。

一、世界人権宣言の起草にも尽力した、アメリカの〝人権の母〟エレノア・ルーズベルトは述べている。
「教養は生涯をずっと通して行われるものですし、学校ばかりでなく、実生活のなかからも得られるものです」(出口泰生訳『愛すること 生きること』大和書房)
その通りであろう。
日々の現実生活のなかで、教養を深めていく。人格を磨いていく。
その人が生涯、向上の人生を歩んでいけるのである。
オルコットは、26歳の時、日記にこう綴った。
「大忙しの生活、講演や本、よい人々からできるかぎり学ぶ。人生は私の大学。立派に卒業して優等賞をもらえますように」(師岡愛子編著『ルィザ・メイ・オルコット ── 「若草物語」への道』表現社)
〝人生が大学〟 ── 素晴らしい言葉である。
オルコットは経済的な事情で、若き日から、さまざまな仕事をしながら学んできた。そうした労苦を自身の糧として、世界的な文学作品を世に送り出したのである。
わが尊き同志の皆さまは、「人生の大学」というべき学会の中で、最高峰の哲学を学んでおられる。そして、無上の幸福の大道を歩んでおられる。
とりわけ〝創価の太陽〟である婦人部、そして健気なる女子部の皆さまは、その模範の存在である。「人生の幸福大学」の最優等賞を、三世十方の仏菩薩から贈られる方々であると賞讃申し上げたい(大拍手)。

一、中国の周恩来総理は論じておられた。
「西方(=西洋)の発明家はみな大学卒業生とは限っていません。たとえば、ワットがそうです」(米谷健一郎編『周恩来 日本を語る。』実業之日本社)
ワットは蒸気機関の改良や、数々の発明で有名である。
18世紀、英国スコットランドの腕のいい職人だった彼の才能も、封建的な徒弟制度の中で埋もれそうになっていた。
そのワットの実力を見抜いて、グラスゴー大学の職員として雇い、研究できるように道を開いたのが、「経済学の父」アダム・スミスであった。
学歴や社会的な地位を超えた、この実力主義による登用が、蒸気機関の改良につながり、絢爛たる産業革命の突破口となったのである。
12年前の6月、私は、名門グラスゴー大学からの名誉学位授与式に臨んだ際、その歴史を感慨深く偲んだ。
ともあれ、学会も、学歴主義ではなく、信心を根本とした「人材主義」で、新たな宗教革命を起こしてきた。
これからは、ますます少子高齢の社会となる。
年配の方はもとより、かけがえのない一人一人の人材が、伸び伸びと、勇気と希望と自信をもって、何倍もの力を出せるように、皆で祈り、心を砕いていかねばならない。
学歴等の形式にとらわれて、本当に信心のある、優れた人材が埋もれてしまうようなことがあれば、活力を失い、衰退してしまうだろう。
また、学歴がないから、学歴のある人に対して、意見を言うのを遠慮してしまう ── そうした寂しい思いを、大切な大切な同志に、絶対にさせてはならない。
万代の発展のために、「深く、多角的、多元的に、人材に光を当てよ!」と私は申し上げたい。
なお、私が世界の大学・学術機関から贈られた名誉学術称号は、まもなく200となる(大拍手)。すべて、全世界の同志を代表しての受章であり、創価の平和・文化・教育運動への信頼と賞讃の証しである。
そして健気なる、わが友が、生々世々、大知性に光り輝いていく象徴であると、私は祈り、確信している。
これらの栄誉を、私は、大学へ行けなかったわが同志とともに、深く広く分かち合わせていただきたい(大拍手)。

一、戸田先生は、「外交で勝て」と繰り返し教えてくださった。
外交のできない人間は、学会のリーダーにするな ── これが先生の考えであった。
創価の正義と真実を堂々と訴えていく。言論の力で敵を打ち破り、多くの人々を味方へと変えていく。
そうした力がなければ、多くの友を守ることはできない。新たな時代を切り開いていくことはできない。
大切なのは青年だ。若い人に光を当て、どんどん育てていきたい。
また青年は、自ら外に打って出て、自身を鍛えていただきたい。実践のなかでこそ、真の実力が培われるのである。

一、日蓮大聖人は仰せである。
「(妙法信受の人は)生まれたばかりの王子が産着に包まれたようなものであり、生まれたての大竜のようなものである。
軽んじてはならない。蔑視してはならない」(御書342ページ、通解)
これが、妙法流布に生き抜く学会員の尊き立場である。
断じて、わが同志を蔑むようなことがあってはならない。また、だれ人にも絶対に蔑ませてはならない。
御聖訓には、こうも仰せである。
「妙法蓮華経の五字を弘められる智者に対しては、いかに賎しくても、上行菩薩の化身か、または釈迦如来の御使いかと思うべきである」(同550ページ、通解)
「(三類の強敵による大難に)耐えて、妙法を弘める人を、釈迦仏は必ずや衣で覆い守ってくださるであろう。諸天は必ず、その人に供養するであろう。また肩にかけ、背中に負って守るであろう。その人こそ、大善根の人である。一切衆生のためには大導師なのである……」(同1359ページ、通解)
大聖人は民衆の一人として、あらゆる苦難を乗り越えて、妙法を弘められた。その御心のままに広布のために戦いゆく友が、どれほど尊い存在であるか。このことを決して忘れてはならない。
戸田先生も語っておられた。
「けっして特別な偉い人というのはいるものではない。しかし凡夫の姿、凡夫の位でありながら、あらゆる人を救うところの力をもつようになるというのです」と。
凡夫の姿のままで、苦悩する人々を救っていく。絶対的幸福への方途を教えていく。
これほど偉大なことはないのである。

一、今、私は台湾・中国文化大学の張鏡湖理事長とも、対談集の発刊へ対話を重ねている。
張理事長は著名な地理学者であり、環境問題、エネルギー問題の大家でもあられる。
かつて張理事長は、こう述べておられた。
「民主の時代のリーダーとは、あたかも、交響楽団の指揮者のようなものである。
必ずや、それぞれの役割を深く理解していかなければならない。
さらに、多くの協調と対話を進めていかねばならない。そうやって、〝皆を楽器のごとくに生かしていく〟ことができるのだ」
どうか皆さまも、賢明に、勇敢に、全同志の力を一段と引き出し、一段と結合させながら、「勝利の名曲」を奏でゆく、見事なる名指揮をお願いしたい。
また、今年は、四国で「紅の歌」が誕生してから25周年となる。
学会歌の歌声が響くところには、喜びがある。広布の発展がある。
私たちは、にぎやかに、そして高らかに、学会歌を歌いながら、生き生きと前進してまいりたい。
各方面に戻られたら、わが敬愛する同志の皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えください。
きょうは本当にありがとう! また、お会いしましょう! (大拍手)

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