2014年12月27日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月27日(土)08時54分18秒 俗衆増上慢は、仏法の高低浅深については何も知りません。 それなのに、これらの無智な人間が、真正の弟子に迫害を加えるのは 第二(道門)、第三(僣聖)の幹部に扇動されているからなのです。 だからこそ、民衆を、会員を、賢明にする以外にないのです。 本来、学会幹部の役割は、どんなにわからず屋の会員でも、 忍耐強く見守り、正しい信心に導いていくのが使命であり、誓いであったはずです。 しかし、その誓いを忘れてしまったのが、次の増上慢です。 「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心、充満せん」(同頁) ――悪世の中の僧は、邪な知恵があり、心が曲がっており、 まだ悟りを得ていないのに悟ったと思い込んで、自分に執着する心が充満している―― これが第二の「道門」です。 これは仏教教団の出家者であり、 その特徴は「心が諂曲(てんごく)」であるということです。 「諂曲」とは、強い者に対しては、自分の考えを曲げて、へつらい、ぺこぺこする。 弱いとわかると威張る生命です。 これも学会に引き合わせて考えると、 道門とは会員の尊い浄財で生計を営んでいる本部職員のことです。 これらの職員(出家者)は、少しばかり仏法を知っているために、かえって質が悪くなります。 真実を隠すだけでなく、師匠の教えを自分の都合のいいように平気でねじ曲げてしまいます。 だから師匠の教えを常に研鑽し、もっとも師匠を知る人と出会えば、 本来はその人を褒め称えて、喜ぶべきなのにかえって嫉妬し怒りだす。 自分より勝れている人を素直に尊敬できない。 世間の厳しい経済社会から離れ、経済的にわずらわされることもなく、 多くの人の中から選ばれて自分は師匠の側で働いている、 だから一般会員よりも、何でも知っているし、自分は別格の弟子なのだ――と、 もしこういう心根の職員がいるとすれば、それが慢心であり、道門増上慢の本性なのです。 Tweet