投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 8月11日(火)10時49分25秒     通報
御書P1268 通解
「総じて日蓮の弟子は京に上ると、初めは忘れないようであるが後には天魔がついて正気を失ってしまう」

人間の心は恐ろしい。偉くなったと錯覚するところに狂いが生じる。創大出身だから、職員だから、先生の側近だから、議員だから、社会的地位があるから等、自分自身を特別だと勘違いし民衆を見下すようになる。この心を大聖人は戒めています。

「記別」という発想自体が特別意識であり、そんなものは創価学会の中にはありません。全員が平等であり、言うならば、すべての人が特別なのです。記別という発想自体が五老僧の思考であり、「会長が上、会員が下」という思考につながる。五老僧の生命は他でもない、自分自身の生命の中にあるとみていくのが仏法です。誰もが陥る思考であり、だからこそ絶えず戒めていかなくてはなりません。正気を失った人間は、気づくことができず、また、素直に話を聴くこともできません。これを教学部レポートでは、「全能感」と表現しています。

師弟の宝冠VOL.1より
戸田先生
「自分が威張るつもりはなくても、自然に威張るようにさせてしまうことが、怖いのだ。学会も、幹部になれば、周囲が、自分を何か偉い存在のように作ってしまう。それに乗ったら恐ろしいぞ。くれぐれも気をつけよ!」

偉くなればなるほど、周囲がそのような雰囲気をつくってしまう。これが人間の世界とも言えますが、仏法者はそれに左右されてはならないのです。幹部になればなるほど、増上慢という魔との壮絶な戦いを強いられることになり、しっかりと戒めてくれる「善知識」が重要になります。誰も何も言わなくなることほど恐ろしいことはなく、わずかな狂いがとりかえしのつかないことになります。戸田先生がはじめて学会から議員を出すときに、「この中のほとんどが退転するだろう」と落涙されたのは実に、人間生命の弱さを熟知していたからでしょう。

新・人間革命7巻より
「自分が苦労して組織をつくってきたという自負があればあるほど、慢心に陥り、ついつい組織を自分の所有物であるかのように、錯覚してしまいがちである」

信心とは、自身の増上慢の命との戦いとも言えます。活動家の自負心もまた慢心に陥る落とし穴だったりもします。組織を発展させた自分は特別なのだと勘違いし、一会員を見下すようになることもあります。これもまた自分自身では気付けません。学会活動頑張っているという自負があればあるほど、気を付けなければならないのです。

幹部も議員も絶対に特別扱いする必要はありませんし、またしてもなりません。特別扱いが仏法を歪め、創価学会を破壊していきます。どこまでいっても全員が一会員であり、立場等は役割の問題に過ぎません。断じて「会長が上、会員が下」などということはないのです。官僚主義、権威主義に毒されていくと、わからなくなります。このことは、どれだけ注意してもしすぎることはない問題なのです。