2015年8月10日 投稿者:KS部OB 投稿日:2015年 8月10日(月)00時16分14秒 通報 【東京・関東・東海道合同研修会-②】 (2006・8・17-18) 夏真っ盛りの「8月24日」が、私の入信記念日である。 今年も、全世界の同志から祝賀していただいており、この場をお借りして、心から感謝し、御礼を申し上げたい。 日本はじめ全世界の、毅然として広宣流布に前進しゆく、尊い健気な、わが同志の方々の「健康」と「幸福」と「勝利」を、心からご祈念させていただくのみである。 今、うれしいことに、全同志の真剣な弘教によって、新しい「広宣流布」の拡大の波が広がっている。新しい「地涌の友」が続々と誕生している。 日蓮大聖人は、有名な「諸法実相抄」に仰せになられた。 「末法において妙法蓮華経の五字を弘める者に、男女の分け隔てはない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えがたい題目なのである。 初めは、日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人、三人、百人と次第に唱え伝えたのである。未来もまた同じであろう。これこそ地涌の義ではないか。 まして広宣流布の時は、日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするように確かなことである」(御書1360ページ、通解) この御聖訓を、厳然と証明しているのが、わが創価学会である。 私の入信の日 ── 昭和22年(1947年)の8月24日は、日曜日であった。大変に暑い一日であったと記憶している。 当時は、入会の儀式の勤行が、今よりも、ゆっくりで、慣れていない長時間の正座で足が痛くて苦しかったことを思い出す。 私は、戸田先生の人格を慕い、深遠な哲学性を求めて入会したが、宗教そのものには抵抗があった。 父親は、私の入信に猛反対であった。父と私の間に入って、母は大変に苦しんだ。 そうした私自身の体験に照らしても、新入会の方々の心境がよくわかる。 その意味から、私は、入会当時の戸田先生の激励のご指導を、そのまま、伝えさせていただきたい。 これも、私が若き日から記録し、留めていたものである。 「これから長い人生である。どういう宿命が待ち構えているか知れない。いつ、どのようになるかもわからない。一生涯、悠々と人生を生きていける信念と哲学が、絶対に必要である」 「今後、年老いて振り返った時に、どれだけ自分が有意義な人生を生きたか、価値ある人生を生きたかが大事である。 とくに、死という問題に立ち至った場合、悠々と総仕上げを飾っていけるかどうか。その時に悔いるようなことがあっては、断じてならない。人生は、一瞬のうちに年をとってしまうものだ」 「一切の人生航路、生命航路の現実は厳しい。それを打開していく根本こそが、この大聖人の仏法である。その仏法を、青年らしく、勉強し、実践してみなさい」 この師匠の指導の通りに、約60年間、私は、大仏法を実践してきた。先生が教えてくださった通り、最高に有意義な、最大に価値ある人生を生き抜いてくることができた。 新入会の皆さんにとっても、入会の原点の日が、10年先、20年先に、どれほど重要な人生の記念の日となっていくことか。 そのことを、どうか、晴れ晴れと確信し、良き先輩とともに、良き同志とともに、そして、私とともに、前進していっていただきたい(大拍手)。 私はこれまで世界を舞台に、平和のため、人類の未来のために「対話」を重ねてきた。 10年前、キューバを訪れ、カストロ議長と会見したことも懐かしい。 また、アメリカの国務長官を務めたキッシンジャー博士とも、ニューヨークなどで何度も語り合った。 冷戦時代、ソ連と中国が対立している時にソ連を訪れ、コスイギン首相と率直に意見を交わしたことも忘れられない。 私は、「ソ連は中国を攻めない」との首相の言葉を、中国の首脳に伝えた。 絶対に戦争を起こさせてはならない ── これが私の思いであった。 また日本でも、世界の識者や各界のリーダーと縦横に語り合った。 すべて未来を見すえての行動であった。 こうして蒔かれた平和と友情の種は、今、世界の各地で大きく花開いている。 誠実の行動に勝るものはない。勇気の対話で破れない壁はない。 どうか、このことを忘れないでいただきたい(大拍手)。 人生は、戦いがあるから、おもしろい。 戸田先生は、関東の同志に呼びかけられた。 「僣聖増上慢が出ると、私もうれしいと思うが、皆さんもうれしいと思ってもらいたい。 その時こそ、仏になれる時だ。最高の名誉をもって、敢然と戦おうではないか!」 また、こうも言われた。 「権威で飾り立てた、最も卑しく、ずる賢き、仏法で説く第三の強敵・僣聖増上慢を、決然と迎え撃ちたいのだ」 大難こそ、仏になるチャンスである。 仏の生命は、敢然と難と戦ってこそ、そして勝ってこそ、わが身に輝きわたるのである。 静岡で、戸田先生は教えてくださった。 「政治、経済、教育、文化、それら各種のものの根底に、真の仏法がなくてはならぬと断ずる。 真の仏法を根底において、その活動を育成し、助長して、国家を救い、民衆を幸福のなかに暮らさせんとするものである」 たとえば政治も、「政治のための政治」ではだめだ。理想や理念がなくなれば、苦しめられるのは庶民である。 根底に「慈悲の精神」「生命尊厳の哲学」を打ち立てなければ、民衆の不幸は止まらない。 逝去の直前、戸田先生は静岡の地で叫ばれた。 「邪悪とは、断固、戦え! 一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!」 悪に対して容赦してはならない。言論の剣で、責めて責め抜くのだ。倒すまで戦うのだ。 どういう心、どういう一念で戦っているか。最後は、信心があるかどうかが、厳しく間われていく。 日蓮大聖人は、東海道で勇敢な信心を貫いた南条時光に仰せである。 「日蓮の弟子たちのなかで、法門をよく知っているかのような人たちが、かえって間違いを犯しているようである」(御書1546ページ、通解) 大聖人の時代も、学識があるとされていた弟子のなかに、かえって邪義に染まっていく人間がいた。尊大ぶって師を教訓し、批判し、後には反逆していく輩もいた。 創価学会も、こうした「師子身中の虫」と徹して戦った。善悪を明快に叫んできた。だから発展したのである。 世界の哲人の言葉には、仏法に通じる智慧が光っている。 それらは、仏法を深く知り、心広々と展開していくための「序分」「流通分」であるとも言えよう。 戸田先生は、いつも私に、文学や歴史をはじめ、社会万般のさまざまなことを教えてくださった。 先生にお供して移動する際も、飛行機の中でも、車の中でも、あらゆるところが「戸田大学」の校舎となった。 戸田先生は、中国の孫子の兵法についても語っておられた。 先生は、漢文を好んで引かれた。さまざまな書物を、よく白文(=句読点や訓点のない漢文)で読んでおられた。 『孫子』には、こう綴られている。 「戦闘に巧みな人は、その敵を攻撃する時の勢いははげしく、その攻撃する適切な時機は瞬時である」(天野鎮雄釈『孫子・呉子』明治書院) 時を逃さぬスピードと力。これは、あらゆる戦いの原則である。 学会も、これをやってきたから勝った。 また、『孫子』には、こうある。 「まず手柄を立てた兵士を表彰することを忘れてはならない」 「勝ってますます強くなるというのは、このことである」(村山孚訳『孫子・呉子』徳間害店) 功績を立てた人を、リーダーが顕彰する。皆で讃え合う。そうした組織は、生き生きと伸びていく。 さらに、『孫子』には記されている。 「勝利は積極的につくることができる」(前掲・天野釈) 安閑としていては、勝利は得られない。 「ふざけ」や「遊び」は敗北の因である。 戦いは、まず自分自身が「必ず勝つ」と決めることだ。祈ることだ。動くことだ。 そして皆が「楽しく」「喜んで」進むところに勝利はある。 勢いある前進をしていくことだ。 戸田先生は、よく言われた。 「報告が戦いだ。その代わり、インチキな報告をしたら許さない」 正確な情報。迅速な情報。急所をつかむ情報。これが勝負を分ける。 私が先生に「情報自体が間違っていることもありますが」と申し上げると、「そうだな。しかし〝におい〟をかぐことができる。それで真実がわかることもある」と言われていた。 私は、友のため、広布のために、あらゆる情報を集めた。 大事な情報は、先生にすぐ報告した。 先生はよく「いい情報だ」「いい意見だな」とほめてくださった。 これまで私は、同志が安心して前進し、勝利していけるよう、日々、人知れず、ありとあらゆる手を打ってきた。 皆、広宣流布の「将の将」であるならば、全身全霊を捧げて、何か価値ある手を、建設的な手を打つことだ。 立場ではない。責任感さえあれば、智慧はいくらでもわくものだ。 平和の大道を開き、正義を広げるために、痛快なる勝利の歴史を綴りたい。学会魂を燃やして! (大拍手) きょうも、戸田先生の指導を通して、少々、お話をしたい。 皆さんのおかげで、創価学会は、未曾有の大発展を遂げている。 だからこそ、油断できない。油断すると、悪い人間が必ず出てくる。これだけは絶対に許してはならない。 民衆の尊き労苦で築かれた、偉大なる希望と幸福の城を、断じて荒らさせてなるものか。 人の善意につけこむ悪党 ── そこにひそむのは「権力の魔性」である。 戸田先生は、権力をもつ者には、それはそれは厳しかった。 「極悪を世に知らしめて、責めて責めて責め抜け! 最後まで! これが、正法を行ずる者の使命であり役目である」 忘れ得ぬ指導である。 急所は全部、先生から教わった。 「大作が聞いていれば、全部、実現されるだろう」。そう先生はわかっておられた。絶対の弟子として信頼してくださった。 これまでも、同志の真心を踏みにじる、卑劣な反逆の人間が出た。 とんでもないことだ。 民衆が主人なのだ。権力者は〝僕〟だ。なのに威張って、ふんぞり返っている。今、民衆が覚醒しなかったら大変だ。 極悪に対して、黙っていたら、こちらまで悪になってしまう。手厳しく、声をあげるのだ。 意気地なしであってはならない。 ずるい人間であってはならない。 今こそ、新しい学会をつくる時である(大拍手)。 新しい発想、新しい協議が大事である。 戸田先生は「事態の推移とともに、新しい部門が生まれる。これは、きびきびして明朗闊達、学会が生きている証拠だ」と言われていた。 きびきびと手を打ち、悠然と戦い、勝つ。 それが学会の伝統である。 だらだらと、手をこまねいていて、勝てるわけがない。 また、大事な会議で、準備がいいかげんだと、戸田先生から容赦なく叱られたものだ。 すべて戦いである。勝つための会議である。 一事が万事で、リーダーが後手になれば、結局、魔に食い破られる。戦わない人間が上に立てば、皆が迷惑する。 学会のため、広布のために、なすべきことは、断じてなすのだ。 戸田先生は、仕事や生活上のことも、よく指導された。 「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである」 「自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である」 多くの人生経験をもった先生の言葉は、深い説得力があった。信心の大確信が輝いていた。 戸田先生は断言された。 「仏法に一番忠実であることが、世法の上でも最も強い」 広宣流布に忠実に生き抜く人が、人生でも、社会でも、間違いなく勝っていく。 私が言うのではない。恩師の指導である。それにのっとるのが、一番正しい。 創価学会の組織を隅々にいたるまで堅塁に ── これが戸田先生の決心であられた。 「隅々まで」である。どこか一部ではない。 さらに、戸田先生は、こう綴っておられる。 「人の休んだり、遊んだりする時間を、自分は仏様の為に使ったら、これこそ末法適時の修行じゃないか。ここに功徳あり」と。 広宣流布のため、皆の幸せのために尽くして、功徳が出ないわけがない。 一人一人を見て、どこで戦うべきか、どうしたら力を発揮できるかを考える。 これもまた、戸田先生から学んだ将軍学である。 先生は言われた。 「どんな立派な人間でも、短所がある。 また、どんな癖のある人間でも、長所がある。 そこを活かしてあげれば、みな、人材として活躍できるのだ。 人を見て、その人にあった働き場所を考えることがホシだ」 一流の事業家でもあった先生は、「人材は金には替えられない」と、よく言われた。 用事を託す場合でも、だれを行かせるかまで深く考慮し、細かく指示されていた。 たとえば銀行ならば、男性に行かせるよりも、感じの良い女性に行かせたほうが、銀行側の対応も早い場合がある ── こう教えておられた。実際、その通りであった。 また、折伏も、こわい顔をした男性が行けば、「けんかしにきたのか」(笑い)となるかもしれない。 しかし、品のいいお嬢さんが語れば、「学会は嫌いだが、あなたは素晴らしい」(笑い)と一変する。そういう例が、いくつもある。 これだけをとっても、女子部がどれだけ偉大かがわかる。 何より日蓮大聖人が、女性の門下に数多くの御書を贈られている。女性を大事にされた一つの証左とも拝せよう。 私は19歳から、全てが戸田先生からの訓練の日々であった。10年間、朝から晩までお仕えした。先生は、哲学をはじめ、あらゆる学問を打ち込んでくださった。これが師弟である。 先生が、「俺が死んでも、大作がいるから心配ない。学会は必ず大きくなる」と言われたこともあった。 先生の人を見る目は、鋭かった。 「人を使うということは、非常に重大なことである。人というものは、使う場所を間違うと、一軍の大敗をまねく」と言われた。 「いかなる場合にも、人物を適材適所におくということが、非常に大切である。 頭のズサンな者を要職にしたら、とんでもないことになる」 そう警鐘を鳴らされた。 多様な「人材」と「人材」を、どう的確に結びつけ、最大限の力を出させていくか。 それは指導者の一念と、適材適所の配置いかんである ── 戸田先生が指導者論として、常に厳しく教えられたことである。 戸田先生は、「外交」を重視された。 「学会の正義を、世間にどう認識させるかが勝負である。外交戦がますます重要になるぞ」 そう言われ、自ら先頭を切って実践された。 戸田先生が語り合った識者に、徳川夢声氏がいる。〈1894~1971年。放送芸能家。映画やテレビでも活躍した〉 話芸の達人と言われた夢声氏だが、対談に臨む姿勢は真摯であった。 戸田先生は言われた。 「徳川夢声は、対談する場合、やはり相手の著作を読んで、相手を知ってから対談するという」「人と会う場合、その事前に、相手の著書を読んで、その相手のもつ考え、思想を知ってから会うようにすることが必要である」 当然のことであるが、大事な基本である。 先生は、こうも教えられた。 「相手の地位よりも低い紹介者の名刺をもっていくのは、愚かだ」 「人を訪問するときには、良い服を着て行け」 緻密な先生であった。人の心をつかむ、名指導者であられた。 戸田先生は、だれと会っても、王者のごとく厳然としておられた。 こう言われていた。 「どんな人とも、真っ向から、わたりあえる人間になれ!」 「どんな立場の人に会っても、学会の正義を堂々と語れ!」 これをだれより実行しているのは、婦人部であろう(大拍手)。 高い学歴のない一婦人が、大学の教員を見事に折伏した。戸田先生は「偉い、偉い! 」と最大に讃えておられた。 私は青年時代から、どんどん外に打って出て、対話を重ねてきた。日本や世界の指導者とも、戸田先生の弟子として、誇りも高く語り合った。 閉ざされた青年であってはならない。内外を問わずどんどん人と会い、人と対話せよ! 人の心をつかみ、味方をつくれ! すべてが自分自身の訓練となり、財産となる ── これが先生の青年への励ましであった。 戸田先生は訴えておられた。 「創価学会は、どこまでも『師弟の心』を合致させて、永遠に『広宣流布の勝利』を成し遂げていくのだ!」 これまでも語ってきたが、昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」で、私は師匠である戸田先生の心をわが心として指揮を執り、「絶対に勝てない」といわれた戦いに勝った。 新聞が「〝まさか〟が実現」と報ずるほど、大阪中が驚くような勝利を収めた。〈7月に行われた参議院・大阪地方区の選挙で、圧倒的に不利だった学会推薦の候補者が当選を果たした〉 また、大阪支部として1カ月に1万1111世帯の弘教という金字塔も打ち立てた。 当時、私は28歳。社会的な地位などない青年である。お金もない。自分の車もなかった。 当時の関西本部もまた、古くて粗末な建物だった。人が建物の中を動くたびに、「ミシッ」「ミシッ」と音がして揺れ動く。活気にあふれた本部は、まるで軍艦のようであった。 この関西本部を拠点として、私は大阪の地を駆けめぐった。大変なところに飛び込み、友を励まし続けた。皆、喜び勇んで、「私もやります!」「必ず勝ちますよ!」と戦列に加わった。 そして、不可能を可能とする大勝利の結果をもぎとったのである。 皆が負けると思っていた大阪が勝った。しかし、勝てると考えていた東京が敗北を喫した。そこには幹部の傲りがあり、油断があった。 東京に戻った私に対して、戸田先生が「よくやったな。大阪が勝って助かったよ」と、うれしそうな顔で言われたことが忘れられない。 その翌年の4月、大阪で参議院の補欠選挙が行われることになり、私は急きょ、再び大阪で指揮を執ることになった。 十分な準備時間のない短期決戦であった。また、1議席を争う選挙であり、前年にも増して厳しい戦いであった。 私は、闘争に次ぐ闘争で疲れ切っていた。 東京などから多くの幹部が応援に来たが、遊んでばかりで、真剣に戦おうとしない人間もいた。 また、あろうことか一部の人間が悪質な買収事件を起こしてしまった。結局、戦いは敗北で終わった。痛恨の極みであった。 そして、この事件をきっかけに、7月、私は公職選挙法違反の容疑で不当逮捕されたのである。 お前が容疑を認めなければ学会本部を手入れする。戸田を逮捕する ── そう言って私は恫喝された。 体の衰弱しつつある戸田先生が入獄するようなことになれば、命にもかかわる。それだけは絶対に避けねばならない。 私は先生をお守りするために、いったんは検事の言葉に従い、あとは法廷闘争で無実の罪を晴らそうと決めた。苦渋の決断であった。 後に、裁判で私の無罪判決が下り、身の潔白は証明された。裁判長は公正であった。厳然と真実を見抜いたのである。 常勝不敗 ── これがリーダーの使命だ。戦いは、断じて負けてはならない。 「大阪の戦い」の前年、昭和30年(1955年)4月の統一地方選挙は、学会の支援活動の初陣であった。 この時、私は東京の大田区(都議選)と、横浜市の鶴見区(市議選)の両方で、支援の責任者として指揮を執った。 結果は、どちらも最高点で当選した。 戸田先生も、「大作はすごいな」と感嘆しておられた。 「大作は、宝の中の宝だ。最高の誇りだ」 ── そう言って私を信頼し、大切にしてくださった。 師匠のために戦う。それが弟子である。 私は戸田先生が亡くなられた後も、先生の偉大さを世界に宣揚してきた。先生の名を、全世界に知らしめてきた。 弟子の闘争によってこそ、師匠の偉大さは後世に残されていくのだ。 戸田先生は厳しく言われた。 「信心の団結で三代の会長を守りながら、前進勝利していけ!」 大切なのは信心の団結だ。「師弟の精神」を守り抜くことだ。 忘れてはならない、永遠の指針である。 また、ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチは述べている。 「城主は、彼の重臣や従者たちに用心するために、最大の注意と最高の配慮をしなければならぬ。なぜならば、彼らこそ彼を裏切るのにきわめて好都合なのだから」(久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社) 「内部の者の方が、外にいる敵よりも危害を加えるのに有利な立場にいる」(同) これまでも、学会の幹部の中から、大恩ある同志を裏切り、反逆していった不知恩の輩がいた。 ロシアの文豪ドストエフスキーも「多くの場合味方こそ第一の敵になるものです」(小沼文彦訳『ドストエフスキー全集 第17巻』筑摩書房)と綴っている。 さらに、古代ローマの哲学者ボエティウスは、「どんな悪疫(=悪性の流行病)が友人面をした敵より有害でしょうか」とまで述べているのである(渡辺義雄訳書学の慰め」、『世界古典文学全集26』所収、筑摩書房)。 広宣流布の和合僧団である学会を、絶対に破壊されてはならない。敵の本質を鋭く見破っていくことだ。 戸田先生は、青年に限りない期待を寄せていた。 心の老人になってはならない。みずみずしく、生き生きと語るのだ。 実績もないのに、偉ぶってはだめだ。一兵卒として、一番大変なところで勝利をつかむのだ。 戸田先生は叫ばれた。 「学会の青年のたくましさ、これを吹き込まなければ、今の青年層を本当に救うことはできない」 隆々たる学会青年部の前進が、どれほど社会全体の希望となるか。 どうか、正義の青年部は、がっちりと団結して進んでいただきたい。 全員が、「広宣流布の将の将」である。舞台は世界だ。力ある真の弟子が、続々と出てこなければならない。 青年ならば、最激戦地へ飛び込み、あえて苦労を求めて、富士のごとき自分を、堂々と鍛え上げていただきたい(大拍手)。 Tweet