投稿者:まなこ   投稿日:2015年 8月 8日(土)17時17分22秒     通報
■ 既成の価値観を揺るがす運動

斉藤: そうした観点から見ますと、大聖人の折伏自体、当時の人々にとっては、大変な「動執生疑」だったと言えますね。
既成の仏教界を震撼させる戦いではなかったでしょうか。

名誉会長: 仏教界だけではなかった。幕府権力も、それに連なる人々、ひいては民衆までもこぞって動執生疑を起こしたのです。それまでの誤った宗教観、信仰観を根本から否定されてしまった。人生観、社会観、民衆観 —- 人々がそれまで信じていたものが、ことごとく覆されたのです。大聖人に対して大きな反発が起きたのは当然です。難が起きないわけがない。

遠藤: 学会員も、その大聖人の示された通りに弘教を行じ、日本社会に動執生疑を引き起こしたわけですね。

斉藤: たしかに、日本人の場合、宗教は特別な人がやるものとか、宗教なら何でもいいと考えている人がほとんどです。そうしたなかで、学会員は厳然と宗教の正邪を語り、大聖人の仏法正義を訴えた。驚天動地のことだったにちがいありません。

須田: 驚くだけならまだしも、多くの人が怒り狂ってしまった。そもそも布教という「宗教の生命」すら失われていた風土が日本です。宗教の正邪をめぐって対話するという精神的土壌がない国土です。“長いものには巻かれろ”といった体質も根強い。白黒をはっきりさせることを嫌い、あいまいにしてしまう。正邪をはっきりと言う学会員の信念に反発が起きたのも当然かもしれません。
しかも、そうした「民衆を仏法の正義に目覚めさせる」学会の運動が既成の秩序を揺るがすものであったために、権力からの弾圧を招かざるを得なかったわけです。

名誉会長: 動執生疑が大きければ大きいほど、難も大きくなる。日本を根本的に救いゆく動執生疑です。難が起きないはずがないのです。
そして、今は世界が相手です。世界を舞台に動執生疑を起こしている。平和と文化、教育と友情を広げながら、着実に人類の仏教観、人間観、生命観を変えています。

斉藤: 人類全体の動執生疑というと、この対談の冒頭で語っていただいたことを思い出します。それは、「人は『どこから』そして『どこへ』『何のために』 —- この問いに答えることこそ、人間としての、一切の営みの出発点となるはずです」という先生の言葉です。涌出品から寿量品にかけてダイナミックに展開される「永遠の仏陀観」は、まさにその答えになるのではないでしょうか。

須田: ルネサンス期の桂冠詩人ペトラルカは書いています。
「いったい自分は、どのようにこの人生にはいりこんできたのか、どのように出ていくのであろうか」(『わが秘密』、近藤恒一訳、岩波書店)と。
「人間の本性がいかなるものか、なんのためにわれわれは生まれたのか、どこからきて、どこへいくのか、ということを知らず、なおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇やの性質を知ったとて、それがいったいなんの役にたつだろうか」(同)。

名誉会長: その通りだ。現代ほど、人間が、「何のため」を忘れ、自分自身を小さな存在に貶めてしまっている時代はない。社会の巨大なシステム(制度や機構)の中で、「自分の力などたかが知れている。自分一人が何かしたところで、世の中が変わるわけはない。うまく社会に適応して生きていくのが精一杯だ」 —- こうした無力感が、人々の心を覆っている。

斉藤: そこに、今日の世界の閉塞感の“一凶”があります。自分を小さな存在と思いこまされ、疑問すら抱けなくなっている。疑問さえもたず、安住してしまっている。そうした精神の不毛さが、ますます人間を小さくしています。法華経の教えは、こうした卑小なる人間の限界を打破するものですね。

名誉会長:そう。「しかたがない」という、凍てついた、あきらめの大地を叩き壊すのが涌出品です。「人間の底力」「民衆の底力」を、晴れ晴れと、巍々堂々と満天下に示していく戦いです。