2015年8月3日 投稿者:KS部OB 投稿日:2015年 8月 3日(月)00時01分30秒 通報 【第2総東京最高協議会】(2006・6・4) 最初に私にとって思い出深き英知の箴言を、皆さまに述べさせていただきたい。 インドの詩聖タゴールは綴った。 「健康というものが人間の肉体の完全な状態であるように、宗教というものは人間性の完全な状態なのだ」(馬場俊彦訳「宗教的生命の覚醒」、『タゴール著作集第9巻』所収、第三文明社) 詩人の深い確信が脈打つ言葉である。 タゴールの盟友であったマハトマ・ガンジーは叫んだ。 「不断の成長が人生の法則である」(クリパラーニー編・古賀勝郎訳『抵抗するな・屈服するな』朝日新聞社) ガンジーは、こうも言った。 「わたしは、わたしの心がつねに成長し、つねに前進してゆくことを望んでいます」(森本達雄・古瀬恒介・森本素世子訳『不可触民解放の悲願』明石書店)と。 仏法もまた、「進まざるは退転」である。 恩師・戸田先生は厳しくおっしゃった。 「組織を陳腐化させてはならない。官僚主義で機械的に上がっていくような、また、そつなくやっていればいいというような、組織になってはいけない」 「創価学会は、日進月歩、つねに生々発展する生きものなのだ」と。 若き日の私は、広布のため、学会のために、師匠に全力でぶつかっていった。それが私の青春の日々であった。 失敗を恐れては、前進はない。 叱られることを避けるようでは、成長できるはずがない。 戸田先生に、一番、叱られたのは私である。 だから鍛えられた。 本物となった。 不屈の自分自身の土台を築き上げることができたのである。 日蓮仏法の真髄は、「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190ページ)である。 ゆえに、きょうも、生き生きと語り合い、楽しく朗らかに学び合い、強く強く前進していきたい。 わが境涯を限りなく開き、向上させていくための仏道修行であり、学会活動である(大拍手)。 この6月6日は、創価の父・牧口常三郎先生の生誕135周年の記念日である。 きょうは、ここ東京牧口記念会館で、牧口先生のご遺徳を偲びながら、第2総東京のリーダーの皆さま方と有意義に協議を進めたい。 ここ東京牧口記念会館の顕彰室には、牧口先生が拝された御書が大切に保管されている。 常に座右にあった、その御書には、至るところに傍線が引かれている。 なかんずく、「広宣流布」と記されたところの前後には、太く強く線が引かれていた。 たとえば ── 「法華経の第七巻には、こうある。『我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於いて断絶させてはならない』と」(御書258ページ、通解)、「闘諍堅固と記されている仏の言葉は、地に落ちることなく(予言通りの世相となっているが)、これは、あたかも大海の潮が、時を違えることなく満ち干するようなものである。このような事実から考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法が、日本国をはじめ一閻浮提に広宣流布することも疑ってはならないことだろう」(同264ページ、通解)などの個所である。 さらに、御書の余白には、ご自身で「広宣流布」と赤字で書き込みをされている。 「一閻浮提への広宣流布」 ── この釈尊、そして、日蓮大聖人の仏意仏勅を実現するために、牧口先生は、愛弟子の戸田先生とともに、決然と未聞の大闘争を起こされたのである。 大聖人の仰せのままに、「広宣流布の信心」を高らかに掲げて、法華経に説かれる「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の難を受け、「三類の強敵」を打ち破ってきたのは、だれか。 牧口先生を原点とする、わが創価学会の三代の師弟のみである。 ここにこそ、大聖人の真の血脈は流れ通っているのだ。 この偉大なる創価の師弟の道を、今や世界190力国・地域の地涌の同志が、胸を張って進みゆく時代に入った。 この6月6日は、SGIの「ヨーロッパの日」でもある。 全世界の同志が、創価の父の生誕の日を心から祝賀している。 牧口先生が、戸田先生が、どれほどお喜びになっておられることであろうか。両先生の直系の弟子である私にとっても、これほど、うれしいことはない(大拍手)。 「人は自らの信念のために声を発し、立ち上がらなければならない」 これも、マハトマ・ガンジーの言葉である。 今、日本中、世界中で、わが同志は、信念の声を発し、新たな出発に立ち上がっておられる。 さらに、6月10日には、“創価の太陽”と輝く婦人部の結成55周年の佳節を迎える。 全国の婦人部の皆さま、本当におめでとうございます! いつもいつも真剣と真心の大闘争、本当にご苦労さまです(大拍手)。 広布に戦った人は必ずや、諸天善神から守られる。いざという時に助けていただける。だからこそ、戦うべき時に戦うのである。 わが第2総東京の友も、新しい時代の先頭に立って意気軒高である。 第2総東京には、麗しい異体同心の団結がある。 また、幹部同士が仲が良く、明るい。歩調が合っている。そういう組織で戦えることは、幸せである。 かつての三多摩本部が、今の第2総東京の前身である「第2東京」として新出発したのは、昭和46年(1971年)の11月であった。 今年で、35周年を迎える。 今日の目覚ましい「第2総東京」の大発展を、当時、一体、だれが想像したであろうか。 とりわけ、懐かしい、また縁の深い立川の友は、力強く、全国の先駆を切って戦っておられる。 思えば、昭和52年の師走、完成したばかりの立川文化会館に、最初にうかがった時、私は居合わせた同志に申し上げた。 「日蓮大聖人は、あの流罪地の佐渡においてもなお喜悦はかりなし』と仰せになっている」 「私どもは、いかなる逆境に対しても、そこから希望を生み出していく強盛なる祈りと信心によって立ち上がることだ」 「そして”自分は信心で勝った”と、雄々しく言い切れるような人生の総仕上げをしていっていただきたい」と。 その後、皆さま方と数えきれぬ歴史を刻むことになった立川文化での私の第一声は、「信心で断じて勝て!」であった。 「仏法は勝負」である。 かつて戸田先生は、愛する弟子に烈火のごとく叫ばれた。 「どんな戦でも全力を傾けて戦え!」 「だらしない戦いぶりで、戸田の弟子といえるか!」 勝ってこそ、弟子である。 勝ってこそ、広宣流布なのである。 その通りに、立川の同志は、そして第2総東京の同志は、人生と広布の断固たる勝利また勝利の歴史を築いてくださった。 なにより、勝つことは楽しい。勝つことは愉快だ。 それは、激戦に次ぐ激戦を見事なる連続勝利で突き進んできた皆さま方が、一番、ご存じであろう。 立川が勝てば、全国が勝つ! どうか、誇り高く、創立80周年へ新たな連戦連勝の突破口を開いていただきたい(大拍手)。 戸田先生は折にふれ、おっしゃった。 「自分は立派な信心をまっとうせず、あちらこちらで愚劣な批判ばかりしている邪魔者は追放せよ!」と。 建設的な意見には、しっかりと耳を傾け、大事にしていかなければならない。ただし、愚痴とか、わがままは、組織をかく乱するだけだ。戦いの勢いを止めてしまう。 ゆえに、皆で厳しく戒めていかなければいけない。 また、牧口先生が傍線を引かれた御聖訓にこうある。 「たとえば、ひどい旱魃の時に、小雨を降らせば、草木はいよいよ枯れ、兵を打つ時に、こちらが弱い兵を先に向かわせると、強い敵は、ますます力を得るようなものである」(御書37ページ、通解)と。 戦いというものは、中途半端にやれば、かえって相手を利してしまう。 先陣を切るのは、最強の勇者であらねばならないとの仰せである。 「可もなく不可もなく」では名将とはいえない。 勇んで最激戦地に飛び込み、すべての同志を奮い立たせ、邪悪と戦い、大きく活路を開いていく、勇気と慈悲のリーダーであっていただきたいのだ。 目、耳、口の自由を失うという”三重苦”に負けず、社会のため、人々のため、不滅の貢献を果たしたアメリカの女性、ヘレン・ケラー。 彼女が交わした、忘れ得ぬ一問一答がある。 ── どのような人々が最も不幸ですか? 「何もすることがない人々」 ── 最高の喜びをもたらすものは? 「働くこと、成し遂げること」 ── 人生で一番楽しかったことは何ですか? 「困難に打ち勝つこと」 仏法に通ずる、人生の真髄である。 何かに挑戦し、何かを成し遂げる人生こそ、幸福な人生である。 同じ仕事をするならば、人よりも努力し、うんと働いて、大きな成果を出す。勝利の証を示す。 そういう、栄光の歴史を綴っていきたい。 先日、私は第2総東京の女子部の代表に申し上げた。 ── 素晴らしい「信心」が、素晴らしい「人生」を創る。 深い「祈り」によって、深い「幸福」の土台ができあがる。 毎日の勤行は、未来永遠につながる幸福へ出発する「きょう」を創っていくことである。 信心することで批判中傷を受けることは、揺るぎない幸福のために、ありとあらゆる不幸の汚れや傷、垢を落としてくれる。 広宣流布のために迫害を受けることは、厳しい社会のなかで、永遠の勝利を形作ってくれる試練である。 皆さん方の折伏の対話、仏法の対話は、どんな為政者の演説よりも、どんな有名人の言々句々よりも、はるかに深く人々を救済できる原動力なのである。 仏法ほど「慈悲」が深いものはない。 仏法ほど「勝利」が広いものはない。 仏法ほど、高い高い「幸福の塔」を築けるものはない。” 信心の世界には、まったく無駄がない。 学会活動は、無量無辺の自分自身の財宝、すなわち生命の最極の宝を磨いて、大福運を増やしていくことなのである ── と。 信心の世界がどれほど崇高か。戸田先生は、分かりやすく、こう語っておられた。 「銀行の方々は、金銭の数字を数えている。 出版社の方々は、本の部数を常に念頭においている。 創価学会は、地球上で最も尊厳な生命を守り、どれだけの人に妙法を受持せしめ、幸せにしたかということを数えるのである」 幸福を数え、幸福を増やす日々 ── なんと尊い人生であろう。 さらに戸田先生は、こう断言しておられた。 「どのような状況にあっても、自分自身が、深く『偉大な信心』に立てば、すべてを開いていける」 これらはまた、牧口先生の教えでもあった。 牧口先生は、「一切の法は皆、仏法である」(御書563ページ、通解)との御金言を深く拝された。 そして「信心即生活」「仏法即社会」の道を広々と示してくださった。 また牧口先生は、「この法門を説くと、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらなかったならば、その法が正法であるとはいえない」(同1087ページ、通解)の一節を繰り返し語られた。 そして、「三障四魔に打ち勝つ信心」「難を乗り越える信心」を教えてくださった。 さらに牧口先生は、「仏法というのは勝負を第一とし」(同1165ページ、通解)、「仏法というのは道理である。道理というのは主君のもつ力にも勝つものである」(同1169ページ、通解)との御聖訓を通し、「絶対勝利の信心」を打ち込んでくださったのである。 牧口先生は、「すべてにおいて現証に勝るものはない」(同1279ページ、通解)、「現証をもって決着を付けよう」(同349ページ、通解)との御文の通り、「現証」を最大に大切にされた。 そして、この偉大な仏法を、現実社会の真っただ中で、「実験証明」していかれたのである。 牧口先生が切り開かれた道が、どれほど正しかったか。 今、世界の最高峰の知性が賞讃を惜しまない時代となった。 この4月28日、意義深き「立宗の日」に、私は、ヨーロッパの名門・国立ウクライナ工科大学(キエフ工科大学)より、名誉博士号を受章した。 こうした栄誉は、すべて、不二の同志の皆さまのご尊家が、子孫末代にわたって、”大博士の英知”に光り輝いていく象徴である。私は、そう確信している。 「数千人の愚者に誉められるよりも、聡明で善良な一人の智者に愛され、尊敬されるほうがよい」 これは、「ウクライナのソクラテス」と謳われた、18世紀の哲学者スコヴォロダの言葉である。 今や、創価の連帯と大前進は、「一人の智者」どころか、世界中の数多くの識者が絶讃し、大きな期待を寄せている。 聡明で、善良な人であればあるほど、私たちの運動の本質を鋭く見抜き、正しく評価してくださっている。 この大学のズグロフスキー総長は、ウクライナの教育大臣も歴任され、「数学」や「人工頭脳学」の大変な権威でもあられる。 総長とは、対談集の発刊に向けて、新たな対話を開始した。 ズグロフスキー総長はこう語っておられた。 「世界は今日、エゴイズムや新しい民族主義などが暴走し、テロなどが多発する様相になっています。 今、人類には、平和、人間主義、互恵(=互いに恩恵を与え合うこと)といった『精神的な価値哲学』が必要です。 その人類の求めに応じようとしているのが、まさに創価学会であり、世界のSGIだと思います」 精神的な価値に光を当て、その力と可能性を最大限に引き出すのが、創価の哲学である。 哲人スコヴォロダは述べている。 「いかなる人も、内面の心に応じた姿を見せる。人間の内面すべてを取り仕切るのは心である。心こそ、真の人間の姿である」 心こそ大切 ── まさに仏法と響き合う言葉である。 〈ズグロフスキー総長は、「池田会長と語らいの時を持つことは、世界の多くの学者、教育者、文化人にとっての夢であると思います」とも語っている。 また総長は、20年前にウクライナで起きた「チェルノブイリ原発事故」の歴史を踏まえつつ、こう語っている。「今後、怖いのは、人間の頭脳と心の中で起きる事故です。爆発です。だからこそ、池田会長の思想哲学が大事なのです」「池田会長の存在、創価学会の存在は、ますます大きくなってきていると思います」〉 さらに総長は、こうも言われた。 「現実の生活の中で、『現証』を示せる宗教を探すことは至難なことです」 「迷信などに基づいた宗教が多い中、創価学会の思想のように、科学的なアプローチのできる哲学は、他にありません。 創価学会は、世界の人々が希求するものに応えようと、実生活の中で実験証明し、社会に貢献しているのだと思います」 牧口先生が示された、現実に根ざした「実験証明」のあり方が正しいことを、世界の知性が讃えているのである。 スコヴォロダは述べている。 「生きるということの最も尊い証は、行動の中にのみある」 どうか、一人ひとりが、一段と、はつらつと「功徳の現証」を示し、「勝利の実証」を示していっていただきたい(大拍手)。 未来は女性で決まる。 一家の未来も、一国の未来も、そして、広宣流布の未来も女性で決まる。 女性が生き生きと活躍し、幸福に輝いているところは発展する。 学会は、女性を深く尊敬しながら、明るく伸び伸びと前進してまいりたい。 ここ第2総東京は、女性のリーダーの活躍が素晴らしい。 インドの大詩人タゴールは言った。 「婦人は生来宗教的信仰心をもち、仮令男子がそれを顧みなくとも、絶えず男子に信仰を訴えるのであります」 「婦人のこの絶えざる然も隠れた要求が男子の向上心に十分な力をあたえます」(北昤吉訳『古の道タゴール講演集』プラトン社。現代表記に改めた) 男性を正しき信仰の道ヘリードしてくれる女性の力は、あまりにも大きい。ここに、平和への希望もある。 透徹した詩人の眼は、女性が持っている優れた「精神の力」に注がれていた。 婦人部の結成55周年に当たり、重ねて敬意と感謝を表したい(大拍手)。 とくに男性の幹部には、婦人部・女子部を、心からほめ讃えていくことをお願いしたい。 「素晴らしいですね!」と賞讃する。「ありがとうございます!」と感謝していく。それがリーダーの役目である。 かりにも女性を差別するようなことがあっては、絶対にならない。 公正さがなければ、リーダー失格である。仏法の指導者は、公平にして公正でなければならない。 牧口先生の座右の御書には、次の御聖訓の個所にも傍線が引かれていた。 「この曼陀羅は、文字は五字七字であるけれども、三世の諸仏の御師であり、一切の女人の成仏の印文である」(御書1305ページ、通解) この御本尊は、すべての女性の成仏を保証し、約束しているとの御断言である。 さらに、大聖人は、こう仰せである。 「この妙法の良薬を持つ女性等に上行菩薩をはじめとする四人の大菩薩が前後左右に立ち添って、この女性が立たれたなら、この大菩薩たちも立たれ、この女性が道を行く時には、この大菩薩たちも、その道を行かれるのです。 たとえば、影と身、水と魚、声と響き、月と光のように、女性の身を守って離れることがないのです」(同1306ページ、通解) 広宣流布に生き抜く女性は、どんな時も、いついかなるところにいても、厳然と護りに護られる。これが、御本仏の絶対の御約束である。 婦人部、女子部の皆さんが、一人ももれなく、最高の幸福に光り輝いていくこと自体が、御本尊の功力の証明である。 皆さんが、健康第一、無事故第一、和楽第一で前進していかれることを、私は祈りに祈っている。 忘恩は傲慢から生まれる。古今東西、そうした例に事欠かない。 イタリア・ルネサンスの大芸術家ミケランジェロと弟子について、次のような証言が残されている。 「彼(ミケランジェロ)は人に教えようとしなかったと、多くの人が非難しているが、これは本当ではない。 進んで教えようとしたのだが、不運なことには、能力のない者か、能力はあっても辛抱力がなく、彼が教えて数か月もたたないうちに自分をひとかどの師匠と思いあがる者ばかりだった」(ロマン・ロラン著、高田博厚訳『ミケランジェロの生涯』岩波文庫) 師匠からの厳しき訓練を受けてこそ、人間の土台ができるのだ。 戸田先生の弟子として、すべてを捧げてお仕えし抜いた私には、それがよくわかる。 師弟は、弟子で決まる。 「師匠に一生懸命、お仕えしていこう!」 ── この一点に心を定めることだ。そうすれば、すべて良い方向に変わっていく。 覚悟が定まらず、心が散り散りばらばらになっている人は、何をやってもうまくいかない。 誠実な人かどうか。要領の人間かどうか。師匠は、弟子のことをすべてわかっている。 師匠の薫陶に対して、感謝できない傲慢な愚か者は、自分で堕落していくのである。 オランダの哲学者スピノザは言った。 「忘恩は感謝の軽蔑である」(齋藤晌訳「神、人間及び人間の幸福に関する短論文」、『スピノザ全集第1巻』所収、内田老鶴圃刊) 恩知らずは、「感謝」することを軽蔑している。 人に感謝すると、自分の価値が下がってしまうかのように錯覚している。ここに大きな狂いがある。 人間は感謝の心を持つことで、より高められ、より豊かに、より大きくなれるのだ。 忘恩の輩には、それがわからない。心の奥底に傲慢があるからだ。 牧口先生とも親交のあった新渡戸稲造博士が、「人から惜しまれる人」と「自分で自分を惜しむ人」の違いについて綴っている。 「自分で自分を惜しむ人」とは、傲慢な人間のことといえる。 新渡戸博士は、自らの経験に基づきつつ、こう書いている。 「少し役に立つ人と思うて育て上げると、直ちにつけあがって、自ら借み、却って飼主の手を噛む犬の如き挙をすることがよくある」(「世渡りの道」、『新渡戸稲造全集第8巻』所収、教文館。現代表記に改めた) 新渡戸博士は、この一文の中で、水戸黄門(徳川光圀)の例をあげている。 ── 明君と謳われた水戸黄門には、幼いころからとくに目をかけ、育てた臣下がいた。 しかし、その男は感謝するどころか、その厚情につけあがって、水戸家を奪い、水戸黄門を暗殺する陰謀まで企んだ。 結局、陰謀は発覚し、水戸黄門は危険を免れ、忘恩の臣下は捕らえられた、というのである。 新渡戸博士は、こう結論する。 ── 明君・水戸黄門ですら、臣下の中から反逆者を出している。 人を疑わない明君ゆえに、悪党に仇で報いられることがあるのである。悪い奴が出たからといって、裏切られた側を非難することは間違っている、と。 だからこそ、後世のために、正邪の決着をつけ、厳正に歴史に留め残していかねばならないのだ。 「傲慢」と「貪欲」は、深く結びついている。 「貪欲になればなるほど、同じ仲間である人間をいよいよ平気で見くびるようになる」(馬場俊彦訳「人類の一体性と教育」、『タゴール著作集第9巻』所収、第三文明社)と、タゴールは喝破している。 さらにタゴールは、「協調の原理」の重要性を訴え、「それが欠けているところに、苦悩や、悪意や、虚偽や、蛮行や、紛争が生じるのです」(森本達雄訳「協調」、『タゴール著作集第8巻』所収、第三文明社)とも述べている。 仏法に説かれた「異体同心」は、最高の協調の原理である。 南米解放の先駆者ミランダは言った。 「わが友よ、悪辣な輩の中傷や妄想に振り回されてはならない」 私たちもまた、悪意のデマなどに紛動されてはならない。 卑劣な中傷は強く打ち砕き、金剛不壊の団結で、広宣流布に邁進してまいりたい。 戸田先生は、外の敵より内部の敵を警戒しておられた。 「破れるのは学会の内部からである。気をつけよ!」 「今後の学会は、くさった幹部を切らねばならない」 先生の叫びは、今も私の耳朶に残っている。 広宣流布は、仏と魔の戦いである。戸田先生の叫びには、「断じて学会を守る」「民衆を守る」との一念が凝結していた。 「人事と金銭は、絶対に正確にして、問題を起こしてはならない」 これも、戸田先生の厳命であった。 イギリスのシェークスピアの戯曲に、次の有名な一節がある。 「金は借りてもいかんが貸してもいかん。貸せば金はもとより友人まで失うことになり、借りれば倹約する心がにぶるというものだ」(小田島雄志訳「ハムレット」、『シェイクスピア全集1』所収、白水社) 小事が大事である。私どもは、戸田先生の遺言を厳守して、清らかな学会の組織を、永遠に守り抜いてまいりたい。 現在、私は、ブラジルを代表する著名な天文学者であるロナウド・モウラン博士と「天文学と仏法」をめぐる対話を進めている。 モウラン博士は、「教育の目的は子どもの幸福である」という牧口先生の信念に心から賛同されていた。 そして、こう語っておられた。 「幸福は、いろいろな障害を乗り越えることと結びついています。困難が大きければ大きいほど、それを乗り越えたときの幸せは大きいという考え方を、子どもに教える必要があります。 人生は障害レースです。それを乗り越えることが、幸福を見つけることです。 そのためには、逃げずに、その困難と戦う必要があります。それが、幸福の方程式です」 きょう(6月4日)は、今月の「未来部の日」である。 何ものにも負けない、勝利の力 ── それが信心である。この幸福の大哲学を、わが未来部の友に、一段と強く伝えてまいりたい。 なお、全国各地の尊き21世紀使命会、壮年・婦人部の未来部育成部長、学生部の進学推進部のメンバーをはじめ、未来部の成長のために尽力してくださっているすべての方々に、この席をお借りして、心から御礼申し上げたい(大拍手)。 モウラン博士の宇宙論は、まことに味わい深い。 わかりやすく、こうも語っておられた。 「夜空に輝くあの光の点、つまり星は宇宙の坩堝で、そこでは生命の原材料が常に作られています」 「一つの星がその一生を終えて爆発するとき、その星は、新しく恒星や惑星や生物を生み出す要素を宇宙に流し込みます」 「星の一生の終わりが、新たな生をもたらすのです。 生命こそ、全宇宙の中で最も大切な宝です。何と素晴らしいことでしょう。宇宙のように、私たちの生命も永遠であり、始まりもなく、終わりもないのです」と。 「生死不二」は、宇宙の大法則である。 妙法とともに生き抜く人生は、この大宇宙の根本のリズムに合致していく。「生も歓喜」「死も歓喜」という大境涯を開いていけるのである。 さらに、モウラン博士は、「宇宙は常に生命を創っています。宇宙は生命の永遠の宝庫です」と語られていた。 そして、「南無妙法蓮華経の音律には、宇宙が創り上げられていくような根源のエネルギーを感じます」とも感嘆しておられた。 題目の力は、計り知れない。 妙法の音律を朗々と唱え響かせながら、大宇宙をも包みゆくような大生命力をわきいだしてまいりたい。 イギリスの歴史家トインビー博士は、「文明の解体」を分析する壮大な試みのなかで、”成長期の社会は「攻勢」を取っている。解体期の社会は「守勢」を取っている”と述べている。〈『歴史の研究第12巻』から〉 このトインビー博士が、創価学会の旭日の勢いに、21世紀の大きな希望を見いだしてくださっていた。 思えば、若い私に“直接、会って語り合いたい”“われわれ二人で、人類の直面する諸問題について対談をしたい”と,のお手紙をくださったのは、博士のほうであった。世界的に声望の高い大学者である。対談は、未来のために深い価値のあるものとなった。 〈1972年と73年の5月、のべ40時間に及んだ。その内容は対談集『21世紀への対話』として結実。世界26言語で出版されている〉 博士は、私にこう言われた。 「あなたは、将来、必ず、世界中の大学から名誉博士の栄誉を受けられるでしょう」と。 その言葉が今、現実となっていることは、皆さまがご存じの通りである。 すべては、「旭日の勢い」で進む全世界の会員の皆さまを代表してお受けしたものである(大拍手)。 〈6日に授与された米・南イリノイ大学カーボンデール校「名誉人文学博士号」で、名誉会長への名誉学術称号は194となった〉 木々の青葉が美しい。俳句の季語では「青梅雨」とも言われる季節を迎える。どうか、くれぐれも健康に留意していただきたい。 南無妙法蓮華経の「経」とは、人間の体では「足」に配される。 〈御義口伝に、「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり」(御書716ページ)と〉 仏法では「経行」という歩く修行がある。これは一種の運動法でもあった。 自分自身の「健康」の前進のため、「境涯」の前進のため、「長寿」の前進のため、そして「広宣流布の勝利と栄光」の前進のため、生き生きと朗らかに、一歩また一歩、足を運びゆくことを決意し合ってまいりたい。 最後に御書を拝したい。 日蓮大聖人が、佐渡流罪という大難の渦中で著された「佐渡御書」である。 「身命にまさるほど惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏になるのである」(同956ページ、通解) 「不惜身命」こそ、仏法の魂である。 そして、大聖人の御遺命である広宣流布のために、不惜身命の闘争をしてきたのは、だれか。 それは創価の三代の師弟であり、その精神に連なる、わが学会の尊き同志の皆さま方であると強く申し上げて、私の記念のスピーチとしたい。 ありがとう!(大拍手) Tweet