2015年7月24日 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策 投稿日:2015年 7月24日(金)14時30分53秒 通報 編集済 信濃町のネット対策チームの対策です。 聖教新聞の体験について意見の意見を見ました。 4月19日に書きました他者への批判とも重なることです。 一般紙と聖教新聞の違いはなんでしょうか? 一般紙は記事の裏を取り報道に間違いがないことが最重要です。 「聖教新聞の体験記事」も同じでしょうか? 「体験記事」になるには地域の方が通信員さんや幹部に体験の内容を繋いで聖教新聞の「体験記事」になります。 その記事は本人さんから聞き取りをして記事になります。 基本的に自己申告で「体験記事」はできています。 また「体験」の中には人には言いたくないような、苦しみや悲しみ、病歴などがたくさん掲載されていることは皆様もご承知の通りです。 なぜ「信心をしていない人」であれば「人に話したくないような」苦しみや悲しみ、病歴を語るのでしょうか? 創価学会の信仰をして悩みを乗り越えたことを人に伝えて、同じような悩みの方へ必ず悩みを解決できるとの思いを込めて「体験記事」になるのではないでしょうか? また池田先生に勝利した報告の為に全てを話すのではありませんか? 中には癌から生還されて「体験記事」に掲載された後に、また癌が再発する方もいます。 そのような方に私達は「何で体験記事に掲載されたのに再発するの?」などと言わないですよね? 創価学会員さんの中にも刑事事件や人を裏切ることをする方もいます。 決してそれを肯定するわけではありませんが、誰もが凡夫です。 間違いをおこすこともあるでしょう。 私達は創価学会員が凶悪事件をおこすと週刊紙などが騒ぎ立てて、全ての学会員がそんな人間だと言うレッテルを貼られて嫌な思いをしてきました。 であるならば、聖教新聞の「体験記事」に掲載された方がその後に過ちをおこしても聖教新聞の記事が信じられないと思うことも間違いではありませんか? 「聖教新聞の体験記事」は信仰者の真心です。 お気持ちはわかりますが、少し視点を変えて見てみると違ってきますよね。 Tweet