2015年7月19日 投稿者:ペネロペ星人メール 投稿日:2015年 7月19日(日)13時35分33秒 通報 ―― 良心の自殺的行為を強いる現行の安保法制に関する学会指導(会合では安保はタブー等) それによる信仰の歪みと堕落へのいざない ―― 多忙な組織活動に、次々に下される問答無用の打ち出し指令。 時には舌の根も乾かぬうちに、真逆の方針転換(都構想関連等)。 しかも説明なしの総括もなし。 従順を強いられた学会員は、いつしか自身の思考が停止。 堕落した幹部と共に、まんまと魔王の手中に。 結果はご覧の通り、学会組織に 「容易に権力による情報操作を許し、”笑顔のファシズム”さえ招来」させてしまった。 止むに止まれず、警鐘の声をあげれば、 口を閉ざせと、「『易きをもとめる多数』へのおもねり」を促す「良心の自殺的行為」を推奨・指導する上層部。 事もあろうに、“哲学不在の宗教組織”に堕してしまった学会組織。 役職が責任職であれば、担当した組織の大きさ分、師匠の構想から逸脱した分、ダラ幹の罪は、極めて重い。その罪の重さに戦慄の覚醒が訪れるのは、果たして近くか遠くか? 以下、ハーバード大学 (アメリカ)での、池田先生の講演 「ソフト・パワーの時代と哲学」より。 ハード・パワーというものの習性は”外発的”に、時には”外圧的”に人間をある方向へ動かしますが、それとは逆に、人間同士の合意と納得による”内発的”なうながし、内発的なエネルギーを軸とするところに、ソフト・パワーの大きな特徴があります。 このことは古来、人間の精神性や宗教性に根差した広い意味での哲学の本領とするところでありました。ソフト・パワーの時代とはいえ、そうした哲学を欠けば、つまり、人間の側からの”内発的”な対応がなければ、知識や情報がいかに豊富でも、例えば容易に権力による情報操作を許し、 “笑顔のファシズム”さえ招来しかねないのであります。 その意味からも、ソフト・パワーの時代を支え、加速していけるかいなかは、あげて哲学の双肩にかかっていると言っても過言ではないでしょう。 この”内発性”と”外発性”の問題を鋭くかつ象徴的に提起しているのが、有名な「良心例学」 ―― 事にあたっての良心の在り方を、あらかじめ判例として決めておくこと ――をめぐるパスカルのジェスイット攻撃ではないでしょうか。 周知のようにジェスイットは、信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えておりますが、パスカルは、内なる魂のあり方を重視するジャンセニストの立場から、ジェスイット流のそうした外面的規範や戒律が、本来の信仰をどんなに歪めているかを力説してやまないのであります。 例えばインドや中国における「良心例学」を、パスカルは、こう攻撃します。 「かれら(ジェスイット)は偶像崇拝を、次のような巧妙なくふうをこらしてさえ、信者たちに許しているのです。衣服の下にイエス・キリストの御姿をかくしもたせ、公には釈迦や孔子の像を礼拝するとみせて、心のなかではイエス・キリストの御姿を礼拝するように教えているのです」(『世界文学大系13―プロヴァンシアル』中村雄二郎訳、筑摩書房)と。 パスカルは、異国におけるそのような信仰の在り方そのものを、必ずしも非難しているのではない。確かに、そのような、やむをえぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外発的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心の働きは逼塞させられ、マヒし堕落してしまう。 「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、従ってパスカルにとって、良心の自殺的行為にほかなりませんでした。 Tweet