投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月15日(水)22時39分14秒     通報
>54年問題では、先生が会員を守られました。今度は会員が池田先生を守る番ではないでしょうか。<

その通りでしょう。まだまだ池田先生頼りというか、「先生が健在なのだから心配ない」という悠長な空気があります。弟子の時代が到来しているからこそ、表舞台にあらわれないことは明瞭なのに、いつまでもおんぶに抱っこでは心許ない。弟子の時代とは、弟子自らが「悪と戦う」ということであり、先生はそれを見守る立場。悪との戦いについても、一から十までいちいち説明はしない。自分たちで祈り、考えて行動するところに意味があり、力もつきます。師弟の呼吸は、師の「任せたぞ」の一言にすべてを察し、「お任せください」と受けていくこと。悪と戦ってこそ本物の弟子の証であります。

教義変更や安保法制に関しても、「自分が会長だったらどうしていたか」「自分が党首だったらどのような判断をしたか」を考えることが大事であると思います。そうでなければ、組織の意向に合わせるだけの人間になってしまい、思考しなくなる。これでは、一方通行の対話のできない人間になっていくのではないかと危惧します。

これからの創価学会の発展のカギを握るのは、活動家でも未活動家でもなく、「信仰心はあるけど、何らかの理由で学会活動に参加していない人」だと考えています。私はこれを「第三勢力」と名付けていますが、この第三勢力の動向次第で大きく流れが変わります。一方通行の対話では、第三勢力を味方につけることはできません。

他人が心を開くのは、「自分のことをわかってくれている」という実感であり、士は己を知る者のために死すです。一方通行はもはや対話ではなく、パワープレイでしかありません。考えない人は、短絡的であり、相手を決めつけてしまいがちです。痒いところに手が届かないようでは広宣流布どころではなく、だからこそ「心こそ大切なれ」なのです。

幹部の悪や組織悪を指摘していく掲示板で、様々な意見交換をすることは、私が先生の立場なら、「自由にやりなさい」の一言です。根底にあるのは弟子に対する信頼であり、つまらない縛りは、価値創造の機会を逸してしまう。その信頼に応えることができるかどうかが、弟子としての戦いなのかもしれません。