投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月15日(水)20時15分8秒     通報
■ 「真実を語る」のが折伏

斉藤: 弘教についてですが、最近、新入会の方から「摂受と折伏は、どう違うのでしょうか」という質問を、よくいただきます。
どうしても「強く言うのが折伏。物腰柔らかに言うのが摂受」というイメージがあるようなのですが —- 。

名誉会長: なにか“強引”であることが折伏だと勘違いしているとすれば、それは誤りです。
折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏の経典」と呼ばれる。
末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、「折伏」です。
例えば、掃除をするのに、力強く掃除するのも、静かに掃除するのも、要は、きれいになればいいわけです(笑い)。

須田: 「折伏」という文字のイメージが、少し“こわい”感じだからでしょうか。

名誉会長: 折伏は、喧嘩をしにいくのではない(笑い)。どこまでも慈愛です。
戸田先生は言われた。
「折伏を、すなおに、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんか口論はいけない。
まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。それで反対すれば、反対した本人がだめになる。
やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」(笑い)と。
おもしろいこと、おっしゃるね、戸田先生は(笑い)。恋愛なら、みんな一生懸命だろう。何枚も何枚も便箋を無駄にして、手紙を書いたり(笑い)。今度の休みの日、どんな言葉で誘おうかなと、夜が明けるまで考えたり(大笑い)。それがうまくいって、結婚して後悔するようなことは、「折伏」にはないけれども(爆笑)。

遠藤: 「やさしく教える」という点では、釈尊の説き方もそうですね。
釈尊は「すべての人が仏になれるのだ」という「真実」をわからせようとして、まず「諸法実相」という法理を説きました。それを聞いて、舎利弗はわかった。他の人は、わからなかった。
そこで釈尊は、譬喩を説いた。今度は四人の声聞のリーダーが理解した。
まだ、わからない人たちがいる。次に釈尊は、自分と衆生との深い縁を説いた。それによって、すべての声聞が納得できた。
このように釈尊は、衆生が「納得できるように」心を砕きました。
まったく! わからないやつだな(笑い)!。と見放したりしなかった。
粘り強いというか、「何としても、成仏させたい」という思いが深いんですね。

須田: その精神は、今の折伏と同じですね。

名誉会長: そう。大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も、歓喜も生まれる。
大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これほど「楽しい」こともない。
戸田先生は、よくおっしやっていた。
「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」と。
もちろん現実には、すぐに信解できる人もいれば、そうでない人もいます。
しかし、焦る必要はまったくない。いずれの場合も、真剣に祈り、語ったことへの功徳は絶大です。簡単にいかないから、智慧も湧き、成長できる。“種”を植えておけば、必ず将来、花開く時がきます。
根本は「私にも、仏様のお使いをさせていただけるんだ」と喜び勇んで、語っていくことではないだろうか。

遠藤: 折伏している人を心からたたえていくことも大事ですね。

名誉会長: その通りです。その人は「如来の使」であり、仏のごとく敬わなければいけない。それが法師品の心です。この心があるところに、福運はつくし、勢いがつく。結果として、多くの人を救っていけるのです。
広宣流布に生きている学会員を、仏のごとく大切にする。その心がわかれば、法師品は、いな法華経は、わかったことになるのです。