投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月15日(水)07時04分15秒     通報
■ 法華経は「滅後のため」

名誉会長: ある意味で、これまでは助走にすぎなかった。法師品から、いよいよ「釈尊の遺言」である法華経のハイライト部分が始まるね。

須田: はい。この法師品からの展開は、前章までと大きく異なっています。
というのは、ここから釈尊は、自分が亡くなった後(滅後)のことを、説き始めるからです。

名誉会長: 滅後の焦点は末法にある。何が正義で何が間違っているのか、わからなくなった時代に、人はどう生きるべきかという問題です。
この座談会の初めに、現代を「哲学不在の時代」と位置づけたが、それでは具体的にだれが、軌道の見えない「闇の時代」に光を灯すのか。
法師品では、その「人」を具体的に説いている。「法師」とは、現代的には「精神的指導者」といえよう。

斉藤: この品の趣旨から言えば、法師という言葉には「法を師とする人」という意味と「師となって法を弘める人」という二重の意味があります。
「法を師とする」のは、菩薩の「求道者」の側面です。「法を弘める師」とは、菩薩の「救済者」の側面です。

名誉会長: 法師には、その両面がある。
「求道」の面を忘れれば傲慢になるし、「救済」の面を忘れれば利己主義です。学びつつ人を救い、人を救うことで、また学ぶのです。
「求道」即「救済」、「救済」即「求道」です。
ここに人間としての無上の軌道がある。

斉藤: 「人間として」ですね。もはや在家・出家の区別などには意味がありません。法師品に、法師とは「在家出家の、法華経を読誦する者」(法華経 p386)とあるように、在家・出家という区別を超えた存在です。
日顕宗が「僧侶が上で信徒は下」などと主張していましたが、そのような差別主義は、法華経の文にも、真っ向から違背しているわけです。

遠藤: 法師は、自ら法華経を受持・読誦するとともに、人々に向かって法華経を説きます。法師の実践は、語りに語り、人々に法華経を聞かせることでした。

名誉会長: 言論戦です。対話の戦いです。私たちの対話運動こそ、まさに法師品の心に合致している。
釈尊の一生も、入滅のその日まで、人々に語り続けた一生でした。日蓮大聖人も、当時の日本人で、あれほど膨大な著述を残された人はいないといわれる。まさに書きに書き、語りに語り抜いていかれた。その尊いお振る舞いがあるからこそ、後世の人類は仏法を知ることができる。
言論戦です。言論は、その時代はもちろん、後世をも照らしていく。
私がスピーチを通して仏法を語り、世界の指導者と対話をしているのも「後世のため」という思いなのです。

遠藤: これまで学んだ方便品(第二章)から人記品(第九章)までの八品は、「今いる弟子たちを、どう成仏させるか」が中心テーマでした。
この説法の結果、すべての声聞の弟子たちが成仏の軌道に入りました。
つまり、釈尊の直弟子の成仏を確定したのが人記品までの説法であり、その意味では「在世の衆生のため」の説法であったといえます。

名誉会長: 確かに、この八品を見る限りでは、そのようにも見える。しかし、法華経全体から見れば、八品も実は「滅後の衆生のため」なのです。
八品だけではない。法華経全体が「滅後のため」なのです。
日蓮大聖人は、迹門(前半部分)は一応、在世の声聞のために説かれているが、一歩、深く見ると、本門(後半部分)と同様、滅後・末法の凡夫のために説かれたのだとされている(観心本尊抄、御書 p249)。
在世は短く、滅後は長い。在世の門下は少なく、滅後の衆生は無量です。
「一切の人を救いたい」という仏の大慈悲は、必然的に、自分の死後を、どうするかということに焦点が向けられていく。
この「仏の大慈悲」を一身に体して行動するのが法師です。「如来の使」です。