投稿者:The logic in the place    投稿日:2015年 7月12日(日)15時19分53秒     通報 編集済
昭和55年11月発行の「宗内檀徒の皆さんへ」の小冊子は、創価学会を脱会して寺についた「檀徒」(法華講ではない)に対して、1ページの本文にあるとおり、『現状を正しく認識し、宗門の方針をよく理解したうえで、一日も早く落ち着きを取り戻して自行化他の信心に励まれることを願い、一文を草する次第』の内容です。
補足01で説明した「御法主日顕上人御指南」で指導教師(末寺の僧侶)に対しても、『本宗における末寺というものはすべて総本山の末寺であり、あなた方住職の一人ひとりが所有しておるものではないのであります。そして、その信仰的な根本をいうならば、末寺はすべて総本山の寺院であります。したがって、末寺がそれぞれの立場に立てこもって、総本山の指導・指南に反抗する姿を示すことは謗法である、と断ずるものであります。また、信徒も、末寺の住職の所有の信徒ではないのです。聞くところによると、信徒は自分のものだと考えておる人が非常に多いらしいのであります。例えば「総本山の言うことは聞かなくてもよいから、私の言うことを聞け」と言って、総本山の指導は全くそっちのけにして自分の考えを注入している人もあると聞きますが、これは実に、自分の信徒だと思っておる証拠であります。それは信徒を私物化することであって、誤りであり、間違いであります。あくまでも、総本山の指南に従うどころの、末寺住職の教化、化導でなければなりません。かかる弊風を自らも改め、他をも改めさせていくことが、“祖道の恢復”であります。』とある通りです。
しかし、池田先生退任(昭和54年4月24日)以降、池田大作批判はほぼ毎週のように連載されて、余裕の有る学会員(週刊誌を毎回買って読むことが出来る者)、組織内で金銭貸借やら異性問題(壮婦男女関わらず)を犯していながら役職やらプライドで組織に居座る幹部、それを咎めることが出来ない組織幹部が多大の影響を受けて退転(信心を辞める)、または創価学会を脱会して寺院信徒(檀徒)へと流出しました。昭和55年2月26日には、当時の創価学会教学部長 原島嵩が池田大作批判を公言し除名(8月2日)、8月24日の日本武道館での「第五回全国檀徒大会」で自らの主張を弁明(自作の池田本仏論)して、更に檀徒が増加して混乱したために出版された小冊子が、指導教師(僧侶)用の「御法主日顕上人御指南(昭和55年7月)」であり、檀徒用の「宗内檀徒の皆さんへ(昭和55年11月)」だったのです。僧侶と檀徒が巻き起こした学会員脱会運動を「正信覚醒運動」と言いますが、これをキレイに書き換えたものが、日蓮正宗妙観講のサイトにあります。まあ、良く書けばこんな風に美化されるのかと思いますが、興味の有る方は読んでみてください。目的は信者狩り(学会員狩り)です。
尚、「妙観」とは、前法主(日達)の徒弟(僧侶)の集まり「妙観会」に由来しており、この「妙観会」の大半の僧侶が「正信覚醒運動」に参加して「正信会」を結成、先に「第五回全国檀徒大会」に参加したために日顕法主により処分されました。

貧乏学生であった私は、大学生協の食堂で蕎麦ライスを食べる極貧の生活(笑)で、週刊誌など買って読む余裕もなく、アルバイト(土方)と夜学に通い夜の9時からの学会活動と部活と自治会活動の日々で、組織で金銭貸借とか異性問題等にはまったく無縁でした(笑)。ただし、第二次宗門問題と異なり、学会組織が宗門から破門されていた訳ではないので、折伏弘教は現場で実践され、御本尊流布は着実に展開されていました。末寺は、01で述べた通り、イヤラシイ坊主が、本音と建前で学会批判を繰り返しており、縁に紛動された札幌仏見寺近くの北海道教育大学札幌分校の学生部組織(数十名)は、ほぼ全員、脱会退転して現在に至ることになります。