投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 5日(日)10時41分46秒     通報
遠藤: 方便品の説法を聞いて、声聞の中で初めに成仏の悟りに達した舎利弗も、自分の智慧ではなく、信によって仏の悟りの世界に入ることができた(以信得入)とされます。
大智度論に「仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す」と説かれるように、信から始まる仏道修行によって智慧を獲得し、その智慧の力によって「仏法の大海を度る」(成仏する)というのが仏教一般の原則です。
ところが法華経では自分の智慧を強調するよりも、信によって悟ると強調されます。まさに信が智慧の代わりになっています(以信代慧)。

名誉会長: ここに深い意義があるのです。法華経も「智慧」即「成仏」であることは同じです。
ただ法華経においては信の中に既に智慧が含まれている。それが「信解」です。
大聖人は「解とは智慧の異名なり」「信の外に解無く解の外に信無し」(御書p725)と端的に教えてくださっている。
信なくして解(智慧)はないし、解(智慧)として現れない信もにせものなのです。
「解」とは「解脱」の解であり、「解放」の解にも通じる。一切の苦悩の鎖から解き放たれた自在・自由の境地。それが「解」であり、その智慧の境地は「信」によってのみ得られるというのです。

遠藤: 法華経の分別功徳品(第十七章)では「其れ衆生有って、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん」(法華経p518)と、「一念の信解」を強調しています。
また「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、而も毀ひせずして随喜の心を起さん。当に知るべし。己に深信解の相と為す」(法華経p523)とあります。
妙法を初めて聞いて随喜する「初随喜」の人は、既に「深い信解」を得た姿であると説くのです。信解に成仏の実質があることを示していると考えられます。

名誉会長: くわしくは分別功徳品のところで論ずることになると思うが、四信五品といっても初めの「一念信解」と「初随喜」に法華経の本意があるのです。

須田: なぜ法華経が「信」を強調するかという問題は、法華経が仏の随自意の経であるという点にカギがあるのではないでしょうか。

名誉会長: その通りです。随他意の教えは、文字どおり、衆生の境涯に応じて説いたものです。ゆえに、受け入れられやすい。「易信」であり「易解」です。しかし凡夫の想像も思惟も超えた仏の境涯は「難信」であり「難解」です。だからこそ「信」を強調するのです。
大聖人は、己今当(過去・現在・未来)の経と法華経との違いについて、伝教大師の法華秀句の次の句を何度も引いておられる。
「当に知るべし己説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なることを随他意の故に、此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」(御書p688、p991 一代五時継図・諸経と法華経と難易の事等)
随自意の経は、凡夫の境涯のワクを、はるかにはみ出しているゆえに、「智解」できない。「信解」するしかないのです。
あたかも、宇宙ロケットを知らない人々に、いくら説明しても理解を絶しているように、生命の宇宙を自在に遊戯する妙法という秘術は、凡夫の思議を超えている。だからこそ強い「信」の力によって、妙法の軌道に乗る以外にないのです。
その「信」は盲目的なものではなく、文証・理証・現証に基づくものです。
牧口先生は、こう言われている。
「われわれは、医学の知識がなくても、医者を信用することによって病気を治すのである。そのさい意識的にせよ、無意識的にせよ、次の三条件に合致する医者を選ぼうとするだろう。
一、学歴や肩書や専門等を考えるのは文証にあたる。
二、その医者が多くの病人を現に治しているかどうかは、さらに大事な条件であって、これが現証である。
三、しかもその治療法は、医学上、合理的なものであることが納得できるならば、もはや何の不安もない。これが道理、すなわち理証である」

遠藤: なるほど、こういう日常レベルでも「以信代慧」はあるし、「三証」もあるわけですね。まさに一切法即仏法ですね。

名誉会長: 法華経が「信」を強調する理由を、生命の次元でいえば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち「元品の無明」を断ち、「元品の法性」すなわち“本来の自己自身を知る智慧”に目覚めることにある。この法性を“仏性”“仏界”と言ってもよいでしょう。
ところが、これは生命のもっとも深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて“仏性”“仏界”は、自身の生命に顕現してくるのです。
大聖人は「此の信の字元品の無明を切る利剣なり」(御書p725)と仰せです。「信」は「開」であり、「疑」は「閉」です。
妙法に対して自身を開けば、妙法が自身に開かれるのです。だからこそ「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)なのです。「信」も仏界、その結果の「智慧」も仏界です。
宇宙の根源の「法」を、その宇宙の一部である人間の小さな頭でつかむことはできません。その「法」が自身の生命に顕になるように心身を整える以外にないのです。
そのための妙法への「信」であり、「帰命」です。大聖人は「信は不変真如の理なり」「解は随縁真如なり」(御書p725)と仰せです。帰命でいえば、信は「帰」、解は「命」です。
妙法を信じ、妙法に「帰する」ことによって、妙法が自身の上に顕現し、妙法に「命く」生命となるのです。妙法が躍動する生命になった証が、随縁真如の「智慧」であり、信解の「解」です。
「信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」(御書p725)と仰せの通りです。
その意味で、信と解は対立するものでないことはもちろん、信が解を支えるというだけの静止的なものでもない。
本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によってさらに信を強める「解から信へ」 —- この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが「信解」の本義といえるでしょう。
そう考えれば、梵語の「アディムクティ」が「志」とも訳せることは興味深い。成仏といっても、一つの静止した状態のことではない。智慧即慈悲を深めつつ、限りなく向上し続ける境涯 —- –それが仏界です。人間としての限りなき向上へ。その「志」に進む両輪が「信」と「解」なのです。

斉藤: 現代の世俗的社会では、「信仰」というと「理性」を休眠させ、閉ざされた主観の世界に安住するというイメージがあります。
しかし、法華経の「信解」は全く違うことが、よくわかりました。

名誉会長: そう。法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」と「解」という、“生命探究の二つの武器”を握りしめて、限りなく問い続け、限りなく向上していく。そのエネルギーを与えてくれるものなのです。
近代の「知」は「信」と分離することで“自立した”と錯覚した。しかし、実は、物質主義をはじめ“検証なき信(自明の前提)”の上に安住する場合が多かったのではないだろうか。そこから近代の苦悩と流転が始まった。
今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき「信と知の統合」です。それは壮大な文明的挑戦です。「信念なき知識」と「理性なき狂信」に引き裂かれた人間社会を復興させる試みです。
また、生命という“親”のもとに、“放浪の息子(近代の知)”が帰還する物語ともいえる。
「信解」。それは、現代という「精神の漂流時代」を正しく方向づけ、生命の高みに向かって進歩させていくキーワードと言えるのではないだろうか。