投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月 1日(水)11時35分49秒     通報
御書(P892) 通解
「日蓮が解釈していうには、『一』とは妙であり、『心』とは法であり、『欲』とは蓮であり、『見』とは華であり、『仏』とは経である。この妙法蓮華経の五字を弘通しようとするためには身命も惜しまないというのが『不自惜身命』である。」

日蓮仏法において、法華経の「一心欲見仏 不自惜身命」の文は極めて重要である。「日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕わすなり」(p892)と仰せのように、この文こそが大聖人の魂そのものである。
妙法蓮華経を体現した仏の一念とは、広宣流布のために「身命を惜しまない」ことであり、ここに究極があります。大聖人と同意というのは、まさに不自惜身命の一念の信心の中にあるということです。

戸田先生は、「広宣流布のためにこの身を捨てます」との一念で戦われましたが、これまさに仏の一念です。創価初代、二代、三代の会長の一念が不自惜身命であり、その一念を指して「大聖人直結」というわけです。大聖人と師弟不二の創価三代の会長を中心として広宣流布を推進してきたからこそ、創価学会は仏意仏勅を名乗れるのです。

不自惜身命の一念を受け継いでいくことが師弟不二であり、正しい信心であります。信心とは心の世界であり、一念ありきです。これなくして、いくら形が整っていようと、人数が多かろうと意味がありません。不自惜身命の一念の中に、日蓮大聖人の精神は息づき、広宣流布を推進することが可能となるわけです。そして、この一念においては、必ず難が競い起こります。逆に難がないということは、不自惜身命の一念ではないということを意味します。

言うまでもありませんが、不自惜身命だからといって、蛮勇であれということではありません。ここを勘違いするととんでもないことになります。また、犠牲になることを促してもいけません。誰も犠牲にしないのが仏法の精神です。

仏道修行とは、不自惜身命の一念を体得していくところにあり、それを成仏の境涯ともいいます。真の功徳とは不自惜身命の一念の中にあるのです。そしてその一念のなかに師弟不二もある。私はそのように、この御書を拝しました。