投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 6月29日(月)12時45分39秒     通報
★第3回全国青年部幹部会 (1988年4月29日)

■中国現代史にきざまれた長征の偉業

さて私は、しばしば、様々な方から著作や出版物を 頂戴ちょうだい する。先日も、ある方から新刊の書物をいただき、さっそく一読し、深く胸に迫る感動を禁じえなかった。アメリカの著名なジャーナリスト・ソールズベリーの「長征――語られざる真実」(岡本隆三監訳、時事通信社刊)という本である。

長征――その偉大な足跡については、私も、青春の日に詳しく学んだ。若き革命児の一人として、当然、学んでおくべき歴史であったし、また青年リーダーとして、誰よりも深く掘りさげ、身につけるべきであると実感していた。戸田先生とも、長征をめぐり、種々、語ったことが懐かしい。

ソールズベリーは、この本の執筆にあたって、徹底的な取材・調査を行っている。たとえば、「長征」のほぼ全行程を、彼は自ら踏破(とうは)した。本書の随所に見られる生き生きとした叙述は、こうした著者の「事実」に対する峻厳な姿勢から生まれたものであろう。これが、ジャーナリストの真の在り方といってよい。

周恩来首相・ 鄧穎超とうえいちょう 女史ご夫妻は、私の長年の友人である。このお二人をはじめ、中国の最高指導者の多くは、この「長征」に参加している。
こうした方々は、この、すさまじいまでの労苦を経験し、いわば、それを人格の″滋養″とされてきた。青春時代に苦労した人こそ、最も指導者の資格をもつといってよい。

中日友好協会の会長を務められた故・廖承志(りょうしょうし)氏も、長征に加わった一人である。

かつて北京でお会いした折、私が高齢の氏の健康を気づかったことがある。その時、廖氏は「私たちのように長征に参加した人は、体のどこかがおかしくなっている」と話されていた。それほど、長征とは壮絶なる戦いであった。今も、その一言は、鮮烈に、私の胸に刻まれている。

いうまでもなく「長征」とは、国民党の勢力に包囲された中国共産党の 紅軍こうぐん が、新たな根拠地を求めて行った大遠征のことである。

その距離は、 江西省こうせいしょう ・ 瑞金ずいきん から 陝西せんせい 省・ 延安えんあん に至る、約一万二千五百キロに及んだ。日本列島の長さが約三千キロといわれるから、そのおよそ四倍に当たる。まさに「二十世紀の奇跡」とされるにふさわしい、歴史的な偉業であった。

長征が行われたのは、一九三四年(昭和九年)から一九三六年(昭和十一年)の、約二年間である。ただし、主力の第一方面軍は、一九三五年に遠征を終えている。

この長遠な行軍が開始された昭和九年といえば、私は六歳。少々、古い呼び方になるが、″尋常小学校″に入学した年である。残念ながら、まだ諸君は生まれていない。

また、この年には、我が学会においても、地方会員の組織化が進むなど、広布の活動に新たな展開が見られた。牧口先生の「創価教育学体系」全四巻が完成し、戸田先生の日本正学館が設立されたのも、この年である。

今日の「発展」を築きゆくための基盤作りは着々と進んでおり、まさに創価学会の「広布の長征」も、人知れず、このころに開始されていた――。

中国の長征が終わった翌年の一九三七年には、 蘆橋ろこうきょう 事件が 勃発ぼっぱつ 。日本は、中国侵略の泥沼に入り、軍国主義の″狂気″が一気にエスカレートしていく。日本は、ひたすら、破滅への坂を転がり落ちていく。

そうした狂った世相にあって、牧口先生、戸田先生が、真っ向から軍国主義と戦い、国家神道と戦ったことは、諸君がよくご存じの通りである。学会は大弾圧を受け、壊滅状態となる。

しかし、この苦難の歴史こそ、一大平和勢力としての学会の不動の「原点」となっていく。あらゆる国の民衆から信頼され、期待される平和集団としての基(もとい)が、この時、初代、二代の両会長の命をけた苦闘により、構築されたのである。これこそ私ども門下にとって最大の誉れであり、誇りである。

■不屈の魂が歴史をひらく

長征の旅路が、どれほどの険路であったか。
第一方面軍の場合、出発時の八万六千人は、一年後の到着時には、わずか四千人ほどになっていたと、ソールズベリーは記述している。また、全体としても、延々たる行程を全うしえたのは、およそ十分の一であったといわれる。

まことに多くが、途中で死亡し、また脱落していった。それほど紅軍の遠征は、あらゆる種類の障害と苦難に満ちていたといわねばならない。

まず第一に、自然は、あくまでも過酷であった。
彼らが渡った河川は二十四、越えた山々は一千(ソールズベリー)。しかも、川も山も、日本のようにスケールの小さなものではない。さらに彼らは、道なき道にも挑み、未知の奥地へと踏み込んでいった。

第二に、敵の軍隊はどこまでも追撃の手をゆるめず、容赦(ようしゃ)なく襲ってきた。空からも、敵機の来襲が相次いだ。

第三に、紅軍内部にも、絶え間なく裏切りや分裂の策動があった――。

周恩来首相は、のちにこの長征を振り返り「最も暗黒な時代」と述べている。しかし彼は続けていう――「それでも、われわれは生きのびた」(ディック・ウィルソン「周恩来」=田中恭子・立花丈平訳、時事通信社)と。

長征は、いわば″死″と″絶望″の 淵ふち に立った、 苦渋くじゅう と険難の行軍であった。しかし、紅軍は、最悪ともいえる数々の障害をはねのけ、見事に目標に到達した。

ソールズベリーは言う。長征とは「危機一髪の敗北と 災厄さいやく が次から次へと襲ってきた闘いを生き延びた人間の凱歌であった」――。

この「凱歌」が、その後の中国の歩みのなかで、どれほど重要な意義をもったかは、計り知れない。
極限ともいえる苦難に負けることなく、逆境のなかを戦い、生き抜いた不屈の「魂」。これこそ、その後の抗日戦争を「勝利」とし、新中国建設という「栄光」をもたらしたものにほかならない。厳しい環境のなかで磨かれ、鍛え上げられた 強靭きょうじん な「魂」が、歴史の新たな舞台を開く″源泉″となったのである。

戸田先生のもとで学んだホール・ケインの小説「永遠の都」に、次のくだりがある。
「常に 断崖だんがい の 縁ふち を歩いてきた人間にとって、最大の緊急事態も、いわば日常 茶飯さはん の出来事にすぎません」(新庄哲夫訳、潮文庫)

以前にも紹介したことがある一節だが、忘れられない言葉である。

私も、「常に断崖の縁を歩いてきた」一人であると思っている。魔の軍勢との闘争は、つねに総力戦であり、ギリギリの戦いであった。ゆえに私は、不眠不休で力を尽くし、働いてきた。

その壮烈な激戦の渦中を進んできたがゆえに、私は、どんなことにもたじろぐことはない。動揺することもない。ケインのいう″緊急事態は日常茶飯″との心境は、手にとるように分かるつもりである。いずこの世界であれ、まことの″戦人(いくさびと)″の心とは、こうした透徹した″覚悟″をもっているものである。

諸君も、また、信仰という最極の「魂」と「覚悟」をもった一人一人である。いかなる苦難があろうと、堂々と、揺るぎなく、広布の大目的へ前進していけばよいのである。その真実の素晴らしき人生に、諸君は徹してもらいたい。