投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時22分48秒  

天台大師の著述のなかで特に重要な著述は「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」ですが、
これは天台大師の「三大部」として非常に有名です。
日蓮大聖人の場合も、古来「三大部」「五大部」「十大部」として、弟子たちが尊重してきました。

大聖人における三大部は「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」とされていますが、
それに「撰時抄」「報恩抄」を加えたものが五大部です。
立正安国論は「諌暁の書」、開目抄は「教の重」、観心本尊抄は「行の重」と
位置付けされていて、御書の中でも特に重要な著述です。ちなみに当体義抄は「証の重」です。

日蓮大聖人は「開目抄」で、法華経身読を完成させた事を語り、一念三千の体現者であることを論証しました。

一念三千の体現者とは【開目抄の指導原理について】でも述べていますが、
すべての人々の生命(十界)に具わる仏界を開く成仏のことです。
いわゆる仏界即九界・九界即仏界です。
法華経の行者とは、自らが「一念三千の成仏を体現した人」ということです。

開目抄は「日蓮大聖人の宗教」を《人の振る舞い》という面からアプローチをしていき、
論理的に確立された教義書と見ることができます。
そして、一念三千の体現者ならば、仏法的な意味で、
円満な欠けることのない「徳」を備えていなければならない事になります。

師の徳、親の徳のみならず、主の徳を備えていなければなりません。
「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり」(二三七頁)
「日蓮は日本の人の魂なり」(九一九頁)という言葉は、
この一念三千の体現者という自覚と裏づけがない限り出てくるものではないでしょう。

しかし、大聖人の立てた「教」は、自らの法華経の身読をもって
成就し完了するものではありませんでした。
つまり、師匠が三徳(主師親)具備したことを到達点として
完了しては何の価値も生み出さないことになります。

師の到達点を、弟子の出発点とするためには、
まず大聖人が一念三千の体現者であることを弟子に信じさせねばならず、
そのために「開目抄」や多くの著述のなかで、繰り返し繰り返し、自らを語り続けてきたのです。

佐渡流罪以降、弟子たちはそういう大聖人を信じ、外護し、供養を捧げていきました。
師匠である大聖人は、そんな弟子たちが一念三千を体現した師を信じることによって、
弟子らの「信」の中に、師と同じ一念三千の法が体現されることを確信していました。

事実、四条金吾の受けた難、池上兄弟が受けた難、下山の日永が受けた難は、
大聖人に連座した難ではなく、自らが戦いを起こして競い起こった難です。
師匠の列々たる激励のもとに、弟子たちはそれを見事に乗り越えていきました。