投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月16日(火)14時26分3秒     通報
行動について今一度確認したいと思います。日寛上人は、信心があっても行動がないことを「不足」であるとし、行動があっても信心がなければ「不可」としている。そして、行動を生む源泉というのは、決意であり誓願です。日蓮大聖人も幼少の頃、清澄山の虚空蔵菩薩の前で、「日本第一の智者となし給え」と願いを立てられています。その誓願通りの人生を歩まれたからこそ、法華経を身読されるに至ったわけです。

信心とは一念を定めることであり、もっとも気高い一念は「広宣流布のため」であり、それが日蓮と同意でもあり、法華経の行者の一念でしょう。はじめは自分のための祈りだったのが、境涯が変わるにつれ、人々のため、広宣流布のためへと一念がシフトチェンジされていく。そういう現象は、学会員の多くが経験していることだと思います。一方、人間というのは環境に左右されるので、組織悪の蔓延する組織で活動していると、気づかぬうちに、組織に蔓延している一念の影響を受けるようになっていきます。成果主義に陥っている組織だと、自分の一念も「成果」になり易く、そこから狂いが生じてくるわけです。その場合、結果が出ても歓喜がないという現象が起こります。

だから絶えず、自身の一念というものを確認していくことが大事であり、朝晩の勤行唱題の目的も、一面から拝すると、自身の一念の確認作業でもあるわけです。一念とは、即ち「何のため」であり、ごまかしはきかないものです。たとえ、周りの人はだませても、自分自身をだますことはできない。ここに信心の厳しさがある。そういう意味において、信心とは自分自身と向き合うということであり、それが仏道修行なのです。そして自分と向き合うことは、労作業であり、勇気と生命力を使います。

自分と向き合うことを意識することができれば、人の話を聴くことができるようになります。また、あらゆることから「気づき」を得ることもできます。気づき自体が功徳であり、気づきがあるからこそ人は成長することができます。人生にはいろいろな問題が起きますが、そこには多くの気づきが存在し、自身を成長させてくれます。難があるからこそ境涯革命もでき、信心を深めることもできるのはそのためです。

何か起きた時に、嘆きの一念なのか、それとも「ありがたい。いよいよ信心を深めていこう」という歓喜、感謝の一念なのか。凡夫の身ですから当然はじめは嘆きからはじまるケースが多いですが、題目を唱えていくうちに一念がシフトチェンジし、歓喜へと変わっていく。ここに人間革命のドラマがあります。多くの体験談に共通する、一種の流れです。

創価学会が正義である所以は、正しい一念の指導者を中心とした団体だからです。三代会長という正しい一念の指導者の指導を大事にし、実践しているからこそ功徳があるわけです。「三代会長の指導を正しく実践していこう」という一念に功徳が具わり、その上での行動が大事なのです。逆に行動は三代会長の指導通りでも、一念が「三代会長を利用しよう」では不可なのです。故に、どこまでいっても一念を観ていくのが信心であり、仏法は一念の因果であり、行動の因果ではないというのはこのことです。

虹と創価家族様の投稿で、最高幹部が遠藤文書を認めない理由として、「創価学会が成り立たなくなるから」とありましたが、この奥にあるのは「保身の一念」であると私は感じます。保身の一念は信心ではありませんので不可なのです。このように、仏法者というのはどこまでいっても一念に着目していくことであり、一念を観ていくことが仏眼なのです。