投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月14日(日)08時40分11秒     通報
■ 如是我聞の意義

斉藤: 序品の冒頭の「如是我聞」の意義についても、“普遍的法華経”の観点から捉えていくことができるのではないかと思います。つまり、「如是」とは何を指すのか、“このように聞いた”中身は何かという問題です。それは一応、「法華経二十八品」を指していると言えますが、それだけにとどまりません。

遠藤: この「所聞の法体」 —- “何を”聞いたのか —- について妙楽大師は「二十八品全体」だと普通に解釈しました。しかし大聖人は、その上で、法体とは「諸法の心」であり、それは「妙法蓮華経」であると仰せです。
御義口伝では、天台大師の「如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり」(法華文句)という言葉を挙げて、そのことを教えられています(御書 p709)。

名誉会長: 大聖人は「文・義・意」という原理を示されている。
文とは経文の文面のことであり、義とは文が指し示す教義・法理に当たる。経文の文面を見ているだけでは、この「義」までしかとらえられません。
しかし、いかに法華経の「文」と「義」を論じても、その「心(意)」に触れなければ意味はない。大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」(御書 p709)と仰せである。
「法体」「諸法の心」とは、二十八品全体に脈打つ「仏の智慧」そのものです。その智慧が「南無妙法蓮華経」です。
それを「その通りに聞く(如是我聞)」とは、「信心」です。「師弟」です。師匠に対する弟子の「信」によってのみ、仏の智慧の世界に入ることができる。「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と、竜樹(大智度論)や天台(摩訶止観)が言っている通りです。
この観点から言えば、法華経の「如是我聞」とは、全生命を傾けて仏の生命の響きを受け止め、仏の生命に触れていくことです。「如是」は、「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。
全人格としての「我」が聞くのであって、単に「耳」が聞くのではない。
また、この「我」とは、普通は、経典結集の中心者とされる*阿難等です。しかし、その「心」は、末法の今、この自分自身が「我」である。自分が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の説法を、全生命で聞き、信受していくのが「如是我聞」の本義なのです。
大聖人は「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なりされば皆成仏道と云うなり」(御書 p794)と仰せです。自分の外に置いて読むのではない。すべて「我が身の上の法門」であり、「我が生命の法」であると聞くべきなのです。
* 阿難は釈尊十大弟子の一人。多聞第一といわれ、釈尊滅後、仏典結集に中心的な役割を果たした。

遠藤: それで明快になりました。
竜樹の『大智度論』では「如是の義は、即ち是れ信なり」と言い、天台の『法華文句』では「如是とは信順の辞なり」と言っています。
この「信」について、竜樹はおもしろい譬えを述べています。すなわち、信は柔らかい牛皮、不信は硬い牛皮で、柔らかい牛の皮は、用途にしたがって使えるが、硬い牛の皮はそうはいかないと。つまり、信ある人は仏の教えにしたがって、その通りに聞いていけるが、不信の人は、その通りに聞けないわけです。
天台の「信順」という言葉も、意味深いと思います。この「順」について天台は「順は則ち師資の道成ず」と述べています。順ずれば、そこに「師弟の道」が成り立つと。

名誉会長: 「如是我聞」の心とは「師弟不二」の心です。それが仏法伝持の極意です。
一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、響き合う「師弟不二」のドラマ —- それが「如是我聞」の一句に結晶しているのです。
しかも、法華経は「滅後のための経典」です。「仏の滅後の衆生救済をどうするか。だれが法華経を受持し、弘めるのか」。序品の舞台からすでに、この根本のテーマが奏でられている。
日月燈明仏の後を継いで、弟子の妙光菩薩が法華経を説き、日月燈明仏の八人の王子をはじめ人々を成仏させていく —- これも、その一つです。

斉藤: 未来永遠にわたって衆生を救うことに仏の願いがあり、仏が出現する目的があるわけですね。

名誉会長: その通りです。日蓮大聖人は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(御書 p329)と仰せになっている。
次元は異なるが、一般にも、本当に民衆を思う強い一念は、その人が亡くなった後でも人々の心を動かしていく。マハトマ・ガンジーは、こう遺言したと伝えられている。
「私の精神が世界の光明であり得るなら、私は墓の中からでも語り続けよう!」と。
そして、未来の人類まで救おうという師匠の一念を「不二」で分かちもつ弟子の戦いによって、現実に人は救われていく。現実に「法」が、慈悲の働きを及ぼしていくわけです。
師匠がいる間は、まだ、いいかもしれない。師弟というのは、それが本物であるか否か、師がいなくなったときに試されるのです。仏法は厳しい。
釈尊が入滅して、皆が嘆き悲しんでいたとき、一人の老僧がもらしたという。「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。<このことはしてもよい。このことはしてはならない>といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれはなんでもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(中村元訳『ブッダ最後の旅 —- 大パリニックバーナ経』、岩波文庫)と。
この老僧を、諸君は、とんでもない人間だと思うだろう。しかし、現実に人の心というのは、こういうものなのです。
二十一世紀のリーダーである諸君の使命は重大です。

斉藤: はい。心してまいります。
さきほどの序品の話ですが、妙光菩薩が、日月燈明如来の滅後、如来と同じように法華経を説いたことも「如是我聞」の実践となるのでしょうか。

名誉会長: そうなるだろう。仏の入滅を転機として、“救われる弟子”から“救う弟子”へと転換したのです。これこそ法華経の精神です。
だから「如是我聞」の心とは、弟子が決然と立ち上がることです。「さあ、師と同じ心で、民衆を救っていくぞ」と、困難を求めて突き進む、その“大闘争宣言”とは言えないだろうか。
法華経成立の観点からいえば、二十八品の法華経は、仏の滅後、仏と同じ境涯に立って全民衆を救おうと「如是我聞」した弟子たちによってこそ、まとめられたのであろう。その意味からも、法華経は「師弟不二」の経典です。
また戸田先生の「獄中の悟達」も、一次元から言えば、先生が法難の中で、御本仏日蓮大聖人の「常住此説法(常にここに住して法を説く=寿量品の文」を「如是我聞」された姿とは言えないだろうか。

須田: 弟子が立つといえば、池田先生の『若き日の日記』の、戸田先生が逝去された後のところを読ませていただき、改めて感動しました。一日一日、恩師の心を我が心として、学会をどう守り、築いていくか、苦闘されたことが記されています。恐縮ですが、一部を紹介させてください。
「当日の焼香者、十二万人。誠心の人であり、先生を、心からお慕い申し上げる方々である。今後、この方々を、更にさらに、無量に指導し、幸福にしてあげねばと決意。父にかわって」(昭和三十三年四月八日)
「多数の幹部たちは、先生の死を忘れたのか、と憤りを感ずることあり。くやしい」(同五月二十五日)
「恩師の慈悲が、生命に脈々と流れている感じの毎日」(同十一月十日)
「若あゆのごとく、躍動する若人。この人たちのため、自分は一生戦おう。犠牲になってもよい。恩師がそうであった」(同十二月十二日)
「恩師の生命の叫びが、一日一日、消えゆくようでならない。断じて消してはならぬ。
組織あり、教学あり、社会の地位あり —- 大切なのは、慈悲だ。慈悲ある人だ。不退の求道だ。無限の求道の人だ」(昭和三十四年二月二十日)
「首脳たちが、もっと会員のことを真剣に思うべきである。自己を投げだして、会員に奉仕することだ。その叫びに、その姿勢のみに、皆は喜んでついてくるのだ。ずるい指導者になるなかれ。会員が可哀想だ」(同七月二十三日)

名誉会長: 今も、まったく同じ気持ちです。
ともあれ、法華経は徹頭徹尾、師弟不二が魂なのです。