2015年6月9日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 6月 9日(火)06時59分26秒 通報 名誉会長: 二十一世紀を標榜する、壮大なる名称と私は思う。 ともあれ、大切なのは「智慧」である。智慧を体得することです。 智慧と知識の関係は、今後も論じていくことになると思うが、あるイギリスの思想家は書いています。 「知識がありながら智慧がないよりも、知識はなくとも智慧があるほうがよい。それはちょうど、鉱山をもちながら富がないよりも、鉱山はなくとも富があるほうがよいのと同じである」(チャールズ・C・コルトン『ラコン』) 智慧も知識も両方あるのが理想ですが、根本は智慧である。目的は「幸福」であり、知識だけでは「幸福」はないからです。 その意味で、二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない。 そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。実はそこに、法華経が「師弟」という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです。 遠藤: 経典に対しても、頭脳だけでなく、全人格的関わりが絶対に必要ですね。また、それが現実の道理と思います。 須田: 戸田先生の獄中での悟達も、法華経への生命をかけた肉薄から生まれたものでした。 斉藤: このときの「仏とは生命なんだ」との悟達が、法華経を“過去の古典”から現代に蘇生させる原点となったわけです。ここに学会の不滅の深さがあると感じられます。 名誉会長: その通りだ。次の章は、この戸田先生の悟達の意義から入っていきたい。法華経をどう読んでいくのか —- 日蓮大聖人は御義口伝に仰せです。 「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なり」(御書 p794)と。法華経二十八品の一文一句が、ことごとく妙法の当体である自分自身のことを説いている。決して、遠くのことを説いているのではない。 その根本の立場から、法華経をどう読むべきかを、大聖人は御義口伝として残してくださっている。この御義口伝を、深く、厳格に拝しながら、二十一世紀へ「法華経を語る」壮大な挑戦の旅を、読者とともに始めたい。若き諸君の英知を借りながら。 それは、どこまでも「自分自身が仏である」という真理への旅である。人生とは、自分自身への永遠なる旅なのです。 人類の意識革命の必要を痛切に語った詩人に、ヘルマン・ヘッセがいたね。彼は今世紀の病を、鋭敏に感じとっていた。 彼の「書物」と題する詩が、私どもの法華経探求にも示唆を与えてくれています。 「この世のどんな書物も 君に幸福をもたらしてくれはしない けれども書物はひそかに君をさとして 君自身の中へ立ち返らせる そこには太陽も星も月も 君の必要なものはみんなある 君が求めている光は 君自身の中に宿っているのだから そうすると君が書物の中に 長い間 捜し求めていた知恵が あらゆる頁から光ってみえる —- なぜなら今その知恵は君のものとなっているから」 (『生きることについて』、三浦靭郎訳・編、社会思想社) 斉藤: 私どもも、これを通して、法華経に関して、さまざまな角度から勉強をしていきたい。また、勉強していかねばならない。これが二十一世紀に向かう若き指導者たちの真髄の哲学である、こう言えるよう頑張ってまいります。 Tweet