正しさの根拠   投稿者:蘭夢   投稿日:2015年 6月 9日(火)01時02分52秒     通報
会則改訂に際し、三代会長の指導と相違することは、既にご承知の通りでありますが
今一つ、別の角度からの考察をしてみたいと思います。

皆さんは、折伏するとき、相手に創価学会の正しさをどのように説明しますでしょうか
ここでは、少し意地悪に、相手が霊友会であるとか、日蓮宗身延派であるとか、もちろん宗門でもかまいません。
想定してみてください。
日蓮系の宗派は、本当に数多くありますので。
その中において、創価学会が唯一正しいという理由を考えてください。
他宗派との違いは何ですか

①世界中に広宣流布しているではないか・・・・
よく、宗門との比較で、このようにいいますが
数の論理でしょうか、会員数が多ければ正しいといえるのでしょうか
さらに数といっても、世界を見渡せば、キリスト教やイスラム教など、世界中に信者を持つ宗教があります。
まだまだです。

②体験がある。功徳をもらっている。
本来は、一番押したい考えなのですが、残念、それは、どこの宗派も言います。功徳があると。
かつて宗門側、法華講の方と対論したときも、では3年後にどちらが功徳をもらうか罰がでるか、というふうに水かけ論です。
体験とは、その人が感じるものなので、なかなか判断が難しいのです。
願いが叶えば功徳、悪いことが起きれば、宿業、魔の所為、罰。
これでは、判断できません。
人類の為に100年くらいかけて一定数の無作為に選出した方々に一生かけて実験台になっていただき
統計をとるならば、判別できるかもしれませんが・・・

さて、代表的なものを書きだしましたが、皆さんは他に智慧がありますでしょうか
あれば、色々とお聞きしたいところですが、すみません、話を進めることにします。

ここで、大聖人に着目してみたいと思います。
大聖人は、どのようにして自身の正しさを証明していったのでしょうか
法華経を身読することによって法華経の行者であることを証明していったのですよね。
創価学会はどうでしょうか
もちろん、同じなのです。
大聖人と同じ法華経の行者の類なのです。
であるならば、正義の証明とは、法華経の身読によって正しいことを証明していくこととなります。

創価学会破門、忘れることのできない大事件でした。
池田先生は、「魂の独立」と言われました。
この事件は、いわゆる三類の強敵、僭聖増上慢との戦いでした。
三類の強敵と戦うこと、これが正義の証であり、法華経の行者の証ともいえます。
ここで、簡単に御書を引用します

教機時国抄 441頁より—–
三類の敵人を顕はさずんば法華経の行者に非ず。之れを顕はすは法華経の行者なり。
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ここでは、さらに明確化するために法華経を引用します。
法華経 勧持品第十三  妙法蓮華教並開結 441頁より—–

有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍
諸の無智の人の、悪口罵詈等し、および刀杖を加うる者あらん。われらは皆、まさに忍ぶべし。
第一俗衆増上慢

悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満
悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるをこれ得たりと謂い、我慢の心が充満せん。
第二道門増上慢

或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賤人間者
あるいは阿練若に、納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂いて、人間を軽賎する者あらん。
第三僣聖増上慢
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ここで三代会長の権力との戦い、また、登山禁止処分等を書きたいところではありますがここは我慢して
あえて創価学会の破門の意味について着目し掘り下げます。
同法華経勧持品第十三には、有名な先の引用もありますが、続きがあります。

法華経 勧持品第十三  妙法蓮華教並開結 443頁より—–
世尊自当知 濁世悪比丘 不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出 遠離於塔寺
世尊は自らまさに知ろしめすべし。濁世の悪比丘は、仏の方便随宜の所説の法を知らずして、
悪口して顰蹙(ひんじゅく)せん。数数塔寺を擯出・遠離せられん
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「数数見擯出 遠離於塔寺」、まさに破門され、大御本尊にお目通りできないようにされるぞと
書かれているわけです。
破門されることによって、創価学会員は、求めずして先生の指揮の元、法華経を身読することとなったのです。
ここに、創価学会が正しいといえる根拠があると思っています。

とここで、残念なお知らせです。
H会長は、会則改訂により、大御本尊を受持の対象にしないといった。
これは、せっかく破門されて法華経の身読を適えたのに、まったくそれを捨て去るような行為です。
なぜなら、大御本尊があるが故の寺であり、難であるからです。
大御本尊を否定してしまえば、破門も何も、難ではなくなってしまうのです。
邪宗と化した宗門、そこに大御本尊がある。一見それは不都合であり世界広布の足かせと見えるかも知れません。
しかし、法華経の目で見るならば、誉れであり、それこそ正義の証ではありませんか。
我ら、天魔に破門されし法華経の行者なりと、会則改訂なぞせずに堂々と言い切ればよいと思いますが
いかがでしょうか