投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月31日(日)00時22分27秒     通報 編集済
池田大作全集78巻より
青年部・教学部代表協議会 (1991年9月20日)①

■文証無き者はすべて邪偽

真実を真実のままに話す。事実を事実のままに話す。それが歴史となり、未来を照らす。
また、自身の魂の健康を育んでいく。

青年は語らねばならない。
そして教学を学び、正邪の基準を知った教学部員は、
「正」を訴え、「邪」を破ってこそ、学んだ価値がある。
教学を武器に戦ってこそ、「学」が成仏への推進力となる。
日蓮大聖人は「文証」「理証」「現証」という″証拠″が、正法には不可欠であると教えられた。

御書には、文証がいかに大切であるか、経文や天台などの文を引いて強調されている。
「文証無き者は 悉ことごと く是れ邪偽・彼の外道に同じ」
――経文によって説明できない者は、すべて邪であり、偽りである。かの外道と同じである――と。
これは天台の『法華玄義』の釈を引かれての仰せである。

また「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の 眷属けんぞく なり」

――もし仏の説くところ(経文)に従わない者がいれば、よく知っておきなさい、この人は魔の一類である――
との涅槃経の文を引いておられる。

そして「文証」に基づかない過ちについて、それは「天魔の部類・外道の弟子」であると厳しく破折しておられる。
私は大聖人の仰せどおり、つねに御書の「文証」を基準とする。また歴代上人の正しき言葉にのっとって語る。
ある牧口門下生が言っていた。
「現在の宗門が、師匠である日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人等、歴代の上人のお言葉に『信伏随従』していたら、決して今のようなことにはならなかったであろう。
師弟相対という、最も大切な基本はどうなってしまったのだろうか」と。