投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月30日(土)10時44分37秒     通報
批判的思考は、学問においては基本中の基本ですね。これがなければ学問自体が成り立たない。批判的思考とは、「考える」ということであり、疑問を持つということです。指導者となる人間ならば当然身につけていなければならないスキルです。このスキルがなければ、問題意識を抱くことも出来ず、共感力もなくなります。これを「愚か」といいます。

法華経の智慧 普賢菩薩勧発品より
「仏法は、徹頭徹尾、『人間の世界』だ。だから、『人間が人間を満足させる』ことが、仏法の修行です。
皆が何を今、求めているのか。疲れていないか。おなかはすいていないか。何か言いたいこと、聞いてもらいたいことがあるのではないか―敏感すぎるくらい敏感でなければならない。会合にしても、無駄な会合は悪です。」

批判的思考には常に「これでいいのか?」という問いかけがあります。組織においては、無駄な会合や報告がないかを考える頭になります。批判的思考なきリーダーでは会員を満足させることが出来るわけがなく、皆が苦しみます。普賢とは知性であり、賢さをあらわし、人々を納得させる力があります。愚かなリーダーには人は話をしたがらず、「言っても無駄」と思わせてしまいます。これ、広宣流布の足枷であります。

ある一定以上の役職は、本部の職員や外郭団体の職員が99%以上を占めるのが創価学会です。そしてこれらの人たちは聖職という部類に該当し、職業であって職業ではありません。役割においても、会員を指導する側であり、指導する側の人間が不祥事を起こしたのならば、辞めてもらって結構であり、会員は一切困りません。ほとんどの会員は真面目に生きており、その会員を指導する側が不祥事起こして、一体どの面下げて指導をするというのか。不祥事起こしたらいつでも職員辞める覚悟がないと、職員は務まらないし、勤めてもらう必要もないでしょう。むしろ、辞めて、一会員から出直すほうが、本人のためでもあります。学会員は優しいので、「一つや二つの傷は誰にでもある」と、大目に見てくれるかもしれませんが、それに甘んじてどうするのかという話です。

覚悟なき職員は、いざという時に保身に走ってしまうでしょう。それでは内部の悪とは戦えない。覚悟ができないならば、はじめから職員にならなければよい。会員を指導する側というのは、それだけの厳しさがあってこそ、はじめて会員を指導する資格がある。今、もっとも試されているのは職員なのかもしれません。