投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月 2日(火)01時41分27秒     通報

御書 P1124
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」

御本尊とは、日蓮大聖人の魂そのものであります。「宇宙の法則をすみにそめながし」などでは断じてない。南無妙法蓮華経(法本尊)と日蓮大聖人(人本尊)は同一であり、法ありきの人という概念ではありません。「妙法という法則を発見し、弘めた人」という括りで日蓮大聖人を見ることは誤りです。もちろん大聖人も十界互具の凡夫ですが、法華経を身読され、発迹顕本された姿は久遠元初の自受用報身如来です。南無妙法蓮華経を現実世界に具現化された姿こそが竜の口であり、御本尊とはまさに大聖人自身の仏の生命を文字として認められたものです。

日蓮大聖人を凡夫ではなく、御本仏として敬っていくところに信心があります。もしも法本尊のみであったら、大聖人は我々と同じ凡夫であり、ただの宇宙と生命の貫く法則の発見者です。これは法と衆生の分離を意味します。そうではなく法そのものが大聖人であり、我々であるというのが仏法です。すべての生命(有情も無情も)は妙法蓮華経の当体ですが、人間だけが仏の生命を顕現することができます。なぜなら、人間以外に題目を唱えることはできないからです。

人本尊という概念は、我々こそが妙法蓮華経であるということを表現しています。現実に仏とは題目を唱える人であり、題目を唱える人がいなければ、現実世界に南無妙法蓮華経は具現化されません。それでは法が存在しても、現実に具現化されないので、結果的にはないのと同じになります。故に大事なのは「人」なのです。

日蓮大聖人が御本仏であるということがわからないと、自身の成仏もありません。仏とは、自分が仏であることを悟った人のことをいいますが、南無妙法蓮華経(仏)を顕現できるのは人のみであり、人が本尊なわけです。凡夫の我々が「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められている御本尊に南無したときに、自身の仏が顕れる。南無妙法蓮華経とは、寸分の狂い(すぎたるなはし)もなく日蓮大聖人の魂そのものであり、そして、正しい信心で連なる我々自身である。

日蓮大聖人は、発迹顕本したから仏になったのではなく、久遠元初の仏であり、御本仏(人本尊)です。だけどそれをはじめから主張しても誰も受け付けるわけがないので、その証明の戦いが必要だったわけです。仏法の眼からみれば、釈尊も天台も伝教も、大聖人の弟子であります。早く生まれたから偉いわけではありません。

御本尊に心から南無したときに、我々の生命に日蓮大聖人と同じ生命が顕れます。南無妙法蓮華経=日蓮大聖人なのです。これは、信心がなければわからない原理なのです。