投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月29日(金)10時25分41秒     通報
共戦様よりリクエスト(恐らくこれですよね)のあった私の投稿文に、修正加筆しました。
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先生の厳しい叱責があったからこそ、守られてきたのが学会であります。これからは、先生の叱責に代わる何かが必要となります。それがなければ、誰も諌めることもなく、やりたい放題になってしまいます。それは悪にとっては最高の環境であり、本部が伏魔殿の様相をさらに深めてしまいます。それをいかにして阻止していくかが大事になるのではないでしょうか。その鍵になるのが「民衆」であり、一会員であります。

創価学会の師弟とは、師が弟子を護るのではなく、弟子が師を護るところに真髄があると思っています。事業の挫折、大阪事件等、自身を省みずに師を厳護した池田先生の精神こそが、創価の師弟の魂です。弟子に、すべてをなげうって師を護る「覚悟」があるのかないのか。戸田先生を護り抜いた池田先生は、絶大な功徳を頂戴し、そしてそれが因となり、世界の大指導者となられたわけです。決して偶然ではありません。

師を護る「覚悟の信心」は、圧倒的大功徳の源泉であり、そこに連なることが師弟不二の道でもありましょう。もしも池田先生が戸田先生を護ることがなかったら、学会はどうなっていたでしょうか。今日の学会はあろうはずもなく、広宣流布の構想そのものが水泡に帰していたのではないでしょうか。54年は、師を護る弟子がいなかった敗北の歴史であり、ある意味創価学会はここで死んだ。

師に護られる弟子は迹門の弟子であり、師を護る弟子こそが本門の弟子と立て分けることができるのではないか。自分の一念がどちらにあるのかが問われており、「本門の池田門下」を名乗るのであれば、当然後者を選択する人生を歩むべきです。そのことを池田先生は再三スピーチで指導されています。

平和も人権も戦わなければ勝ち取ることは出来ません。先生の戦いによって蘇った創価学会も、今再び、死に瀕しているのかもしれません。仏法をダメにするのはいつの時代においても、愚かな弟子であることと相場は決まっております。最高幹部が慈覚・智証のようになり、無知な会員がそれに付き従ってしまうこと、これ、崩壊の方程式です。

御書の三沢抄に「仏法を学んでも、あるいは自身の心が愚かであることにより、あるいはたとえ智慧は賢いようであっても師匠によって自分の心が曲がってしまっているのを知らずにいるため、仏教を正しく習学し会得することは難しい(趣意)」(p1487)。

付いていく人間を間違えると、とんでもない方向に行ってしまうのが仏法であり、だからこそ三代会長の指導を根本とし、間に誰かを挟まないことを心がけていくべきであります。親分子分の関係が不必要なのはこのためです。同志というのは善知識であり、それは平等で対等な関係を意味します。

師の指導を学ぶという事は、師の真意を汲み取っていくということであり、表面的な学びでは血肉にならない。真意は汲み取り難しであり、わかっているようでわかっていない。わかったつもりの人間が幹部となり、指導をすると逆に歪んでしまう。そして、微妙に師の意向と違った創価学会へと変貌していく。少しのズレの積み重ねが大きなズレとなり、亀裂を生む。これをいかに阻止するのかが弟子の戦いであり、そのためにはどこまでも師の指導を求め、深めていくしかありません。自分中心ではなく、師を中心とした信心こそが「覚悟の信心」であり、求められているものなのです。