投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 6日(土)18時35分33秒 返信・引用 編集済

コロンビア建国の父サンタンデル将軍の行き方をとおして、少々お話ししたい。
ヴィクトル・ユゴーは、コロンビアの「憲法」(一八六三年のリオネグロ憲法)を読んで叫んだ。「ここに天使の国がある!」と。

そこには、最大限の「個人の自由」と、中央権力の制限、地方分権主義、自由経済、そして教会権力の抑制がうたわれていた。
この自由主義的改革は、ユゴーが驚いたごとく、当時の世界でも最先端のものであった。

ただ少々《早すぎた理想》だったのかもしれない。
人々は「自由」の正しい使い方を十分には知らず、かえって内乱状態になってしまった。
ついに約二十年後、より保守的な憲法にとってかわられる結末となった。

振り子が反対側に揺れる――こうした事例は歴史上、珍しくない。
そうならないために、理想と現実との調和をどうとるかに指導者の使命があり、苦衷がある。

それはそれとして、こうした「自由」への理想の源流が、初代大統領サンタンデル将軍である。
「横暴な権力に立ち向かい、自由の炎をたぎらせた市民の団結――それのみが善と幸福な未来の源泉です」

彼がこう語ったのは、不当な追放刑による亡命のさなかであった。
南米解放の父シモン・ボリバルの《右腕》として、南米の独立に不滅の大功労を残したサンタンデル将軍。
彼は、ボリバルとの意見の違いを利用されて、追いおとしの密謀の犠牲になる。「ボリバルを暗殺しようとした」というのである。

何の証拠もなく、大功労者は国外へと追放された。財産も地位もすべて奪われた。
ボリバルの華やかな活躍の陰で、つねに彼を支え、国を治め、公庫(財政)を豊かにし、独立軍に物資を送り、自由主義の改革を推進した彼。

サンタンデル将軍こそは、実質的な《新国家の柱》であった。
ボリバルと将軍の二人が力を合わせたからこそ、三百年にわたる悲惨な植民地支配に終止符を打てたのである。
彼は「勝利を組織した男」とも呼ばれた。

問題は、独立後であった。
君主制の確立を試みるボリバルと、根っからの共和派のサンタンデル将軍との意見の相違である。
将軍は、あくまで権威主義に反対し、自由主義を唱えた。
本人たちの友情は友情として、この対立が、それぞれの支持者の勢力争いに利用された面があった。

バルコ前大統領は「二人が心の中まで敵対したわけではなく、むしろ、二人をかついだ双方の支持者同士が対立し、争いがエスカレートしていったのです」と、当時の事情を説明してくださった。

そしてサンタンデル将軍に死刑の宣告。やがて減刑されたものの国外追放――。
しかし、彼の《自由の炎》は、迫害によって、いよいよ燃えさかった。
「広大な南米の多くの指導者のうち、ただ彼だけが、共和制と民主主義に反対する雪崩に抗して、毅然と立っていた」といわれている。