投稿者:スーパー摧邪人   投稿日:2015年 5月21日(木)13時57分6秒     通報
ご回答ありがとうございます。

教義とは宗教の根幹をなすものです。その宗教を持つものの規範となるものです。
当然内輪の問題です。世界に通用するか否かの問題ではありません。

世界に通用させるのはその教義から出発した思想の展開であって、
それを実際の行動としてなされてきたのが先生です。

化儀と化法の問題を混同しているので、このような論理展開になるのです。
世界に通用させて行くのは化儀です。化法(法体)の広宣流布は七百年の昔、
既に大聖人によって決せられています。

「我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
日女御前御返事を切文にしていますが、大聖人は前提として「法華経を持ちて」と
きちんと申されております。

阿仏房御書も同様ですが、大聖人御図顕の御本尊受持が前提とされています。
最近の創価学会の御本尊軽視がここにも現れているようです。

御本尊は日蓮大聖人の生身であるとの先生の指導もあります。
肉眼では紙墨と映る御本尊は、仏眼で見れば久遠元初自受用報身如来なのです。

その御本尊をシンボルとしか見られないようでは、あなたのいう「覚醒」も、
禅の悟りと変わらないと云えそうです。天魔に誑かされないようお気を付けください。