池田先生の指導です。②
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 6日(土)10時02分42秒 返信・引用

かつて戸田先生は、「社会に信念の人を」と題して論じられた。
その冒頭に、「私は、いまの日本国をみて、なんとなく、ものたりなさを感じている」と。
「もはや戦後ではない」(この年の『経済白書』)といわれた時代である。
景気も順調であった。社会のさまざまな分野で、ある程度、《組織》ができあがり、一応のまとまりをみせていた。
人心も、それなりに安定したように見えた。

だが先生は、その時代相に満足されなかった。
「なんとなく、ものたりない」「なんとなく底が浅い」との印象を率直に述べられた。

なぜか。
先生はそこに、「事なかれ主義」の風潮を厳しく見抜いておられたのである。
つまり「上から命令されたことを、ただ間違いなく、こなしていればよい」
「自分の持ち場に失策さえなければ十分だ」
「与えられたことだけを、責任を追及されない程度にやっておけばよい」
――そんな《小利口さ》の蔓延を、鋭く指摘されたのである。

それはまた、近年の管理会社への、先見的な洞察でもあった。
そして、だからこそ、「社会に信念の人がほしい」と。みずからの信念のままに生き、ちっぽけな《限界》や《枠(わく)》など打ち破って、縦横に活躍する人がほしい――これが、戸田先生の心情であられた。

その「信念の人」をつくるには、どうするか。
先生は、よく「生命力を強める以外にない。そのためには、信心しかない」と述べられている。
一人一人が、「生き生きとして、はちきれるような生命力」「ぴんと、はじけるような生命力」をわき立たせていくことだ。それには大聖人の仏法によるしかない、と。
この戸田先生の心のままに、学会は現実社会のなかに、はつらつたる生命力を脈動させながら、「信念の人」を育て、送りだしてきた。

「信念の人」を育てゆく広布の組織である。
何より、まず自分自身が挑戦また挑戦の「信念の人」でなければならない。
仏法者の人生は、あえて苦難に挑む開道の人生である。
「事なかれ主義」の正反対なのである。

御書に「難来たるを以て安楽とう意得可きなり」(御書七五〇頁)――法華経安楽行品に説かれる「安楽」の意義とは、難が来ることを安楽と心得るべきである――と。

何も行動しなければ、何も難は起こらないかもしれない。
しかし、それが「安楽」なのではない。
そこには向上も歓喜も充実もない。幸福とはいえない。当然、成仏もない。
三障四魔や三類の強敵を恐れて、《ほどほどに》行動し、《適当に》頑張り、小さく固まって生きる――そうした臆病は信仰の死であり、青春の死であろう。

だれ人が何を言おうとひるまない「信念の人」、《世界最高の「勇気」と「正義」の人》――それこそが、信仰者なのである。
いずこの世界であれ、組織が大きいほど、また整備されるほど、「形式主義」と「事なかれ主義」が横行する。
多くの場合、そこから組織の衰退が始まる。

大切なのは、「前進すること」である。つねに前へ、また前へと、進み続けることである。
そのたゆまざる歩みのなかにのみ、組織の真の安定はある。
「前進」を忘れた組織は、それがいかに安定して見えようと、発展への鼓動はない。はつらつたる喜びはない。

まして、学会は、「広宣流布」の団体である。
「信心」の団体である。信心に後退はないし、《もう、これでよい》との停滞もあってはならない。つねに前進、つねに挑戦が信心であり、学会精神である。

「学会精神」とはまた「建設精神」である。
「開拓精神」であり、「闘争精神」である。旺盛な生命力で、いかなる組織悪も打ち破り、いわば「組織善」の模範を築き、また築いていく。その繰り返しのなかに、「広宣流布」の道はある。

また、広布の組織を支え、守り、発展させゆく戦いは、そのまま、「自分」のためであり、「社会」のためである。
さらには、「家族」「先祖」「子孫」「後輩」等々、縁するすべての人々の幸福へと通じていく――このことを、強く確信していただきたい。

「妙」とは、「蘇生の義」「開く義」「具足の義」と説かれる。つねにみずみずしき生命の息吹で、あらゆる行き詰まりや限界を超えて、新しき創造の道を開く。勝利の道を開いていく――それらの力はすべて、「信心」に含まれている。ゆえに「信心」だけは強く、また強くあれ、と重ねて申し上げておきたい