2015年5月29日 投稿者:谷川ひろし 投稿日:2015年 5月29日(金)17時07分53秒 通報 そもそも、創価学会の「内部情報漏えい」「内部告発」「組織悪の糾弾」とも言える 「天鼓」を書いたのは、一体誰なのか。 それは報恩社の北林氏である。下記はそれを証明するものだ。 2000年12月9日 21時~23時 新大阪駅前「居酒屋むらさき」にて対話された記録です。 ———————— H社……報恩社 H太郎……ほがらか太郎 S班……創価班 I……伊藤雄教 P……名誉会長 A氏……浅見茂 S青……佐藤青年部長 T川……谷川 K……北林芳典 T岡……竹岡誠治 S男、S……佐藤男子部長(当時) O田……太田昭宏代議士 H地……波田地 ————————- http://6027.teacup.com/situation/bbs/25093 この報恩社社員I氏が真相をバクロした「I氏との対話」は、 「天鼓」を書いた犯人は報恩社であることを認めたものです。 その他にも、この種の証言や状況証拠はいろいろある。 「天鼓」がばら撒かれていた平成10年12月~平成11年7月当時、本部から「天鼓」の 犯人探しを任されていた佐藤ヒロシも当然、「天鼓」を書いた犯人が報恩社であること を知っています。 では、天鼓を書くにあたって、伊藤園やビックカメラとの癒着等々、 その内部情報(ネタ)は、どこから仕入れていたのだろうか。 その主要なネタ元が、竹岡全国男子部長の父親なのです。 彼が、天鼓の原文が「宿坊の掲示板」にアップされて、この宿板を敵視したのもうなずける。 彼の父親は平成10年秋、50歳になるのを機に聖教新聞社を早期退職して「報恩社」 に就職し、常務取締役に就いている。「天鼓」が出る数ヶ月前に本部職員を 辞めて、自由な身となっていたのである。 聖教新聞社では、広告局に所属する一方で、Y尋やT川、ヒロシらとの パイプをちらつかせ、地方、中央の政界で暗躍していた。「天鼓」がやたらと 「広告」関係や政界の裏事情に通じているのは、このためでしょうね。 信濃町界隈では、竹岡氏が「情報収集担当」であることは 誰でも知っていることである。 Tweet