投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 5月12日(火)20時36分20秒     通報
池田大作全集80巻より
全国青年部幹部会、新宿・港合同総会
(1992年1月15日)③

そして大聖人は、「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か」
──たとえ日蓮の″生き死に″がどうであろうとも、妙法蓮華経の五字の流布は、疑いないであろう──と。

大聖人は、御自身の生命さえ、問題にしておられない。まして、流罪が赦されようと赦されまいと、まったく問題にしておられない。
大事なのは、「広宣流布」である。民衆一人一人を救い、幸福にすることである

──大聖人の御心は、ただ、この一点にあられた。

学会は、この御本仏の御心通り、″広宣流布ひとすじ″に進んできた。ゆえに強い。何ものにも紛動されないし、攪乱されない。そして、いつも「朗らか」である。

先日もご紹介したが、ある識者も「これだけやられて、普通だったら全滅であり、分裂だろう。それなのに微動だにしていない」と驚くほどの、不思議なる前進、また前進
──それが、我が創価学会なのである。

″御書の行者″学会は御本仏の教団

私どもは、常に御書を拝し、御書を仰ぐ。常に「大聖人根本」である。御本仏の″末法の経典″が基準である。それが大聖人の真の門下である。

大聖人の仰せを根本としなければ、だれびとの言うことであろうと、すべて 己義こぎ であり、ウソである。仏法とは無縁の、自分勝手な作りごとにすぎない。

さらに大聖人は、こう仰せである。

「仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢 豈あに 之に過んや、章安大師天台を褒めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ 誇耀こよう に非ず法相の然らしむるのみ」等云云」

──仏滅後二千二百二十余年の間、いまだに法華経寿量品 文底もんてい の仏と、肝要の妙法蓮華経の五字は流布していない。(その大法を流布している)現在の(私の)果報を論じるならば、おそらくは伝教大師や天台大師にも超え、竜樹や天親よりも優れているであろう。(みずからこう言うことは)文証・理証がなければ、これ以上の大慢心があろうか。(しかし、きちんと文証・理証の裏づけがあるゆえに少しも慢心ではない)

章安大師は、(師の)天台大師をほめて「インドの 大智度論だいちどろん でさえ、それ(天台の法門)に肩を並べるものではない。

中国の人師の書など、どうして、わずらわしく語る必要があろうか。これは誇り、おごっているのではない。説かれた法理の内容が、そうさせるのである」等と言っている──と。

「日蓮又復是くの如し竜樹天親等尚其の類に非ず等云云、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ、故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、伝教大師当世を恋いて云く「末法太はだ近きに有り」等云云、幸いなるかな我が身「数数見擯出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな」

──日蓮もまた、このとおりである。竜樹や天親等でさえ日蓮に肩を並べるものではない。これは誇り、おごっているのではない。法理の内容が、そうさせるのである。ゆえに天台大師は、日蓮を指して「後の五百歳(末法)に遠く妙法によって世は 利益りやく されるであろう」と述べている。
また伝教大師は、現在の(大聖人の)世を 慕した って「末法は非常に近くにある」と言っている。何と幸せなことであろう。我が身(大聖人)は「しばしば所を追われる」という経文に当てはまっている。なんと悦ばしいことであろう。なんと悦ばしいことであろう──。

文証・理証を離れて仏法はない。「誇り、おごって言うのではない。法理の内容からの当然の主張なのである」と。これが、御本仏の御確信であられた。

御書にも法華経にもないことを言うのであれば、まさに「慢心」であろう。

しかし、御書の通り、法華経の通りに実践する。経文の上から、道理の上から、「正義」を堂々と主張する──それは慢心でも何でもない。

それを妬んで″破門″などする者こそ、大慢心であり、大増上慢なのである。それは″御書と経文を否定した″ことになるからだ。大聖人の厳しきお叱りは、絶対に免れない。

御書に仰せの「 一閻浮提いちえんぶだい 広宣流布」を進めているのは、創価学会だけである。現実に、「立正安国」の行動を展開しているのも、我が学会だけである。仏法上、学会に肩を並べられる教団など、他に絶対にないと思う。

私どもの戦いを、大聖人は、いかにお喜びか──学会こそ、いわば御本仏の教団である。宗教界の王者である。精神界の王者である。諸君は、尊き「創価の王者」なのである。ゆえに「王者」らしく勝ち抜いていただきたい。

先日も触れたが(一月十二日、鎌倉・湘南合同総会)、「諸法実相抄」には「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せである。

大聖人の 御遺命ごゆいめい 通り、広宣流布へ向かって、 自行化他じぎょうけた にわたって題目を唱えている──それが創価学会員である。御書と経文に照らして「地涌の菩薩」に決まっているのである。

この「地涌の出現」を切り捨てるということは、地涌の菩薩の「 上首じょうしゅ 」(最高指導者)であられる御本仏・日蓮大聖人への大反逆である。宗門は大聖人に矢を放ったのである。仏法上、これ以上の 極重罪ごくじゅうざい はない。

ともあれ、いかなる困難も、学会が御書通りに進んでいるがゆえの難である。難があること自体、学会が「本物」であることの証なのである。これほどの喜びはないし、誉れはない。

どうか諸君は、この確信で、これからも大聖人の仰せのままの「広宣流布」の大道を、胸を張って前進していただきたい。
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■全国青年部幹部会、新宿・港合同総会
(1992年1月15日)①
http://6027.teacup.com/situation/bbs/24534
■全国青年部幹部会、新宿・港合同総会
(1992年1月15日)②
http://6027.teacup.com/situation/bbs/24546