投稿者:谷川ひろし   投稿日:2015年 5月23日(土)09時47分27秒     通報

付言しておけば、浅見副会長の腐敗は氷山の一角。
和合僧団の中で誰かが警鐘を鳴らさなければならない時期にきていると思案した次第。

法華文句には「而して天鼓自然鳴を長出して無問自説を表わすなり」とある。

御義口伝に曰く。
「天鼓とは南無妙法蓮華経なり自然とは無障碍なり鳴とは唱うる所の音声なり自然鳴なり」

「法華文句」「御義口伝」の意は、正に日蓮大聖人の随自意の御振る舞いを示すものであり、
かつ創価学会の代々会長の行ぜられるところである。

弟子たる我々もまた自ずから進んで善をなし、悪を退治しなければならない。

再び念のため断っておくが「事勿れ主義」は決して看過して良いものではなく、日蓮大聖人御在世中、
「天台沙門」を名乗った卑怯者の系譜に連なると喝破すべきなのである。

先の大戦にあっては「事勿れ主義」の者どもが牧口先生、戸田先生を裏切り、
近くは弟子の一部にあった「事勿れ主義」に山崎正友が付け込み、無念にも先生の会長勇退を促させしめたのである。

日蓮大聖人曰く。
「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして、法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を、
とられじ、うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」
(辧殿尼御前御書)

池田先生がこの御書を命とし戦われてきたことを思えば、
弟子の一人として先生を勇退ならしめた事は真にもって慙愧に堪えない。

この過ちを繰り返さないためにも、先生が勇退にあたり墨痕鮮やかに激しく書かれた創価学会の
「正義」の旗を、我ら弟子一同、生涯を賭けて高らかに掲げ行くべきである。

全ての生きとし生けるものにとって、死ほど絶対なるものはない。
誰一人、免れることはできない。

しかしその絶対と思える死も、三世を貫く師弟の絆からすれば相対化されるものなのである。
我々、日蓮大聖人の弟子にとって絶対的な価値とは何か。

「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」(生死一大事血脈抄)

それのみと私は考える。
生死を相対化し三世の生命を実感できるのは、師弟不二に生きることを決意した時である。

眼の前の欲得や人間関係に幻惑され、「事勿れ主義」に堕し、
最も大事な絶対的価値を忘失することは、創価学会員にとって決してあってはならないことなのである。
明日につづく