投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月12日(火)08時13分9秒     通報
創価学会は独立した教団ではなく、正確には「独立させられた教団」である。理不尽な宗門による、不当な破門であり、だからこそ、宗門がいかに堕落しようとも、大御本尊への信はいささかも変わりはないという立場をとってきた。もちろん破門により、宗門とは別の団体になったわけであり、どのような本尊観になろうとも自由である。それに対し、宗門からつべこべ言われる筋合いは一切ありません。だからといって、「言われる筋合いはない」との返答は幼稚であり、それでは自分たちの格を下げ、宗門と同等レベルへと堕してしまう。

御本尊に関する教義の変更と、宗門が謗法の地となったことは、本来は別個に考えるべきであると思う。今回はそれをごっちゃにし、謗法の地を理由とし、大御本尊を受持の対象としないと宣言してしまったことは、行き過ぎであると考えます。大御本尊を大聖人が遺したこと(出世の本懐)は御書に書かれていないというのは、教義上の問題であり、それをもって受持の対象としない(電源ではないし、他宗の本尊だから対象外)という方針にしたのならわかるが、それにからめて謗法の地にあるから駄目であるとしてしまうところに、どさくさまぎれな感が否めない。あくまでも、それはそれ、これはこれと立て分けて考えないと訳が分からなくなる。

私は今回の教義変更は、大御本尊から離れるために、謗法と化した宗門をうまく利用したのではないかと見ています。おそらく、御書に書かれていないという理由だけで、大御本尊から離れる方針だったとしたら、「いままでなんだったのか」と叩かれまくる。それを緩和するためには、「謗法の地」という大義が必要であり、それを根拠とし、無理やり大御本尊から離れる方針を執った。なかなかのパワープレイである。

こういうことをやってしまうと、敵に付け入る隙を与えてしまうのは当然であり、現に笑われまくってしまっているのが現状でしょう。つまり、やっていることが無茶なのである。故に拙速と言われ、懸念の声があがっているわけです。教義変更によって、不当な宗門からの破門という構図をわざわざ崩してしまい、主導権を手放してしまいました。独立した教団として御本尊の教義を再構築するのであれば、「宗門が謗法」ということを抜きにして考えないといけなかったと思います。わざわざ宗門をディスる必要はなかったと考えます。ここに、姑息な何かがある。

今までの教義に、時代に合わないものや、誤りがあったのならば、堂々と変更すればいいのだが、そのために他宗を謗っても意味がない。あくまでも教義において決着をつけていく。日寛教学に誤りがあったのなら、その教義がどのように誤っているのかを明確にし、変更していけばよかった。宗門が謗法の地になったこととは関係はない。時間をかけて、教学部が太鼓判の押せる学会独自の教義を構築すればいいわけであり、その上で、過去の歴史や指導等の位置づけを考えていくこと。宗門が謗法になったことをいいことに、それを利用した教義変更は、ズルいのではないか。王者は王者らしくいこうではないかという話です。

後付けだろうと何だろうと、とにかく大御本尊から離れたかったのでしょうが、わざわざ無理する必要はなかったのではないか。「実質的に大御本尊は拝むことはできず、学会の実情に合ってはいないので、これからは、大誓堂の御本尊を創価学会の中心本尊としていく」で、よかったのではないか。大御本尊は大御本尊として残しておいて、その中でも広宣流布を推進する。それが創価学会という団体であり、大御本尊を盾にやりたい放題の宗門という構図を崩さずにやっていくことが賢く、戦略にもなる。単純に私はそのように考えます。